« 『まともじゃないのは君も一緒』の失速感 | トップページ | 『きみが死んだあとで』で監督が見せたかったもの »

2021年3月24日 (水)

岩崎昶について考える:その(1)

最近、映画評論家の岩崎昶(あきら)について考える機会があった。小津安二郎と同じく1903年生まれの岩崎昶は日本の映画評論家の草分け的存在だが、そのなかでも特別だ。ほかの評論家と違うのは、戦時中に2年も「ブタ箱」に入っていたことが一番大きい。

日本の映画界では、第二次世界大戦中に政府に逆らった者は少ない。監督で亀井文夫、評論家で岩崎くらいだろう。岩崎は1939年に映画法の内容が明らかになると交付される直前に朝日新聞に反対の連載を4回書く。交付されてからも批判を2回。

そして40年1月から池袋署で8カ月、巣鴨拘置所で6カ月を過ごす。判決は懲役2年、執行猶予3年である。ペンを禁じられた岩崎は、満州映画協会の製作部長だった元日活撮影部長の根岸寛一の誘いで東京支社次長となる。彼の名前が作品のクレジットに出てくるのは、李香蘭主演で島津保次郎監督がハルピンで撮影した『私の鶯』(1943)くらいだろうか。

彼がほかの評論家と違う点はほかにもある。一生を基本的にフリーで過ごしたこともそうだろう。評論家で言えば彼と同世代の飯島正は戦前は情報局にいたし、戦後は早大教授となった。15歳若い登川直樹も、戦前の情報局を経て日大教授になった。

大学生の岩崎を『キネマ旬報』に誘った少し森岩雄は評論家からプロデューサーになり、東宝の重役となった。少し下の岸松雄は評論家から監督を目指したが、戦後は新東宝の脚本家として活躍した。同じ年の川喜多長政は最初は岩崎が東大卒業後に勤めた田口商店にいて一緒にムルナウの『ファウスト』などのドイツ映画を輸入したが、それから自ら東和商事を作り、戦後は東宝と組んで東宝東和を経営した。

あえて言えば8歳下の今村太平だけが評論家のまま一生を過ごしたのではないか。今村は戦前は『漫画映画論』などの独自の理論を展開したが、戦後は周囲とぶつかってばかりでかなり悲劇的な晩年だったことは杉山平一『今村太平 孤高独創の映像評論家』に詳しい。

岩崎は戦後は日本映画社でニュース映画を作って政府やGHQともめ、独立プロでも『どっこい生きている』などを製作している。その後は評論家として活躍するが、映画関係者との交流は続いた。今回調べて驚いたのは、1930年代に日大の芸術科(学部になる前)で教えていたことと60年代から70年代にかけて中央大で教えていたこと。いずれも専任ではなかった。

彼が書いた本は60冊近くあり、本に収録されていない雑誌原稿も多数。最近はどんどん若手によって日本映画史の研究が進んでいるが、批評についてはこれからではないか。

|

« 『まともじゃないのは君も一緒』の失速感 | トップページ | 『きみが死んだあとで』で監督が見せたかったもの »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

映画」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 『まともじゃないのは君も一緒』の失速感 | トップページ | 『きみが死んだあとで』で監督が見せたかったもの »