余計なことをする私
地下鉄に乗ると、混んでいるのになぜか1席だけ空いていることがある。そういう時は座席シートにペットボトルや紙くずなどが放置されていることが多い。私はあえてそれらを床下に置いて座るが、そんなことをする人はまずいない。
もちろんそのペットボトルは不潔かもしれないし、サリンが入っていないとも限らない。だがそんなことはまずないし、見ればわかる。場合によってはティッシュペーパーで触ればよい。私は「危ないかもしれないものに近づかない」「みんながしないことはしない」という集団心理が嫌で、あえて行動に出る。私がペットボトルを床に置けば、私の後はみんな普通に座る。
昔会社員になりたての頃(30年以上前だ)、隣でウォークマンで音楽を聴いて外に音が漏れていると、「うるさい」と注意した。私が今以上に本を読むことに熱心だったからだが、それよりもそんな無神経な者を容認してるサラリーマン集団が嫌だった。「たった一人の反乱」というか、「世直し」のような気分だった。
そんな人を注意したら何をされるかわからない、というのが普通の人の、とりわけサラリーマンの考えだろう。へんなことには巻き込まれたくないというか、あえて無駄なことをしないというか。今なら私は「空気を読まない」=KYの典型かもしれない。
大学に移って12年、ようやくわかってきたのは、大学に勤務する人々は教員であれ職員であれサラリーマンよりも「事なかれ主義」だということ。私の場合は政府特殊法人(当時)と新聞社に勤めていたから、比較的自由な発言がしやすかったと思うけれど、それにしても私は浮いていた気がする。おかしいと思うとすぐに口に出していた。
そのせいか、どちらでも部長とか課長とか次長とか、「長」のつく役職につかなかった。新聞社に移った時は、その自由で気取らないざっくばらんな雰囲気が嬉しかった。しかし15年を過ぎると、「事なかれ主義」で「ゴマすり」で「官僚的」な人々が支配しているように思えてきた。
大学に移った時に、私は完全な自由を手にした気がした。もちろんそれは「自由の幻想」だった。授業内容や授業以外の時間の使い方はすべて教員に任されているが、それ以外の規則は全く交渉の余地がない。だれもちょっとした「工夫」さえもしようとしない。そんな周りにいら立つが、それでも好きなように授業をして、勝手な文章を書いているのは悪くないかと思い始めている。
地下鉄のペットボトルから妙な方向に話が飛んでしまった。別の問題かもしれないが、「余計なこと」を言って実行に移す私の中ではつながっている。
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