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2021年6月 1日 (火)

北村匡平『24フレームの映画学』に驚く

何度もここに書いたように、最近の若手の映画研究者の活躍ぶりはすごい。私より上の世代は、海外で学ぶか、文学や社会学などを専攻しながら映画に移った方が多いが、私の世代はちょっと弱い。どちらかというと、研究よりも上映などに携わってきた者が多い。

ところが私より10歳くらい下だと、最初から大学できちんと映画史を学び、博士論文を書いて本にしている。そしてさらに本を書く。30代後半から40代で、脂がのっている時期なのだろう。

北村匡平氏は博士論文をもとにした『スター女優の文化社会学』を書き、さらに『美と破壊の女優 京マチ子』を出したと思ったら、ポール・アンドラ著『黒澤明の羅生門』の翻訳をしていた。そして今度出たのが『24フレームの映画学 映像表現を解体する』。日本の女優を研究しているのかと思ったら、いつの間にか映画そのものへ迫る本を書いた。

これがコンパクトによくまとまっている。映画好きで大学で映画を学ぼうと思ってきた学生に、映画とは何か、映像表現とは何かを教えるのにはいつも苦労する。歴史をたどってさまざまな映画を見せながら、「そうか映画はこうできているんだ」と理解してもらうのは、そう簡単ではない。

それがこの本を読むと、読みやすい文章でするするとわかる気がする。まず第1章の「映画とは何か」がいい。「いま私たちが観ている「映画」と黎明期に作られた「映画」では、作品としてずいぶん異なる」として映画誕生以前からを簡潔に述べる。

エジソンやリュミエール兄弟の「発明」の前に「こうした発明を導いたのは一八世紀から一九世紀にかけての視覚文化の変遷、生理学における視覚機器の技術や写真の誕生といった視覚メディアであり、その複雑に入り組んだ歴史とは切っても切り離すことができない」として幻灯や光学玩具や写真の発明に言及する。

リュミエールの「発明」以降に関しては、「アトラクションのシネマ」というトム・ガニングの言葉を用いて説明する。「初期映画は観客に直に語りかけ、トリック撮影によって驚かせ、見る者の身体に直接的な刺激やショックを与えるような「露出狂的」な映画であり、物語よりもスペクタクル性が前景化する映画である」として具体例を場面写真とともに挙げる。

それからポーターからグリフィスに至って、「見る者を物語に感情移入させようとする物語映画としての完成度の高さが見いだされる」に至る流れを示す。短いながら実にわかりやすい映画史で、私も「そうか、こう言えばよかった」と思う。

第2章は「映画の視線」で、スタンダードな切り返しを『千と千尋の神隠し』などを使って丁寧に説明した後に、成瀬やフェリーニやゴダールの「視線の不一致」を指摘し、小津の「異様としかいいようがない切り返し」を説明する。その直後に最近の『舟を編む』が来るのもおかしい。

その後も「編集」「音響」「境界」といったテーマに沿って、古今東西の作品を数多くのカット写真と共に具体的に説明しながら映像表現の多様なありようを示す。もちろん触れられる映画を見ていないとおもしろくないだろう。映画を学び始めた学生は、ここで挙げられた映画を見ながら読み進めれば、映画にどんな表現があるのかが見えてくるのではないか。その意味では作り手を目指す学生にも読んで欲しい。

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