『マイケル・K』の奇妙な読後感:続き
最近、このブログはおおむね1日おきに映画について書き、その間の日に「それ以外」を書くようにしている。別に誰に頼まれたわけでもないが、昔の友人なども読んでいるので映画の話ばかりでは退屈だろうと思うから。「それ以外」は主に展覧会、本、ニュース関連、大学関連、日々の思い付きなど。
最近はシネコンや美術館は開いておらず、大学はオンラインで話題に乏しい。飲み会もないので面白い話もないし、新しい店の紹介もできない。ニュースも、緊急事態宣言は出したり引っ込めたりが続くがオリンピックは止めないという「日本総我慢大会」的な手詰まり状況なので、何も書くことはない。
そんな時は本に逃れるのが一番なので、もう一度J・M・クッツェーの『マイケル・K』について書いておきたい。この本は「後を引く」。マイケル・Kの無抵抗で一切に消極的だが妙に腰の据わった自然な生き方が、いつまでたっても頭から離れない。誰にも遠慮せずに自分の意見を言い、「多様性」を重んじてどんな相手の話も聞くというような「現代的」な生き方とはまるで逆なのだ。
Ⅱは医者が見たマイケル・Kが描かれるが、医者は最初、老人と勘違いする。「新しい患者、マイケルズには手を焼いている。自分はどこも悪くない、頭痛を止める薬が欲しいだけだと言い張る。……老人のように見えるが、本人はまだ32歳だと言う」。彼はマイケルではなく、マイケルズとして登録されていた。
「彼はまるで石だ。そもそも時というものが始まって以来、黙々と自分のことだけを心にかけてきた小石みたいだ。その小石がいま突然、拾い上げられ、でたらめに手から手へと放られていく。一個の固い小さな石。周囲のことなどほとんど気づかず、そのなかに、内部の生活に閉じこもっている」
これが外から見た姿で、この医師は彼に何か不思議なものを感じてリスペクトしている。もちろんマイケルには彼なりの意志があって、病院を退院した母を荷車に乗せて彼女の故郷に連れてゆこうとする。途中で母が死ぬと、その遺灰を故郷に運ぶ。それが終わるとカボチャの種をまいて、育つと自分で食べる。
「おもな食糧はパチンコで殺した鳥だ。彼の日課は二つ、屋敷の近くでするこの手の狩猟と土地を耕すこと。もっとも深い喜びが湧いてくるのは、日没時に貯水池の壁のコックを捻ると水流が筋になって流れ落ち、鹿毛色の大地を深い茶色に染めるのをじっと見入るときだ。僕が庭師だからだ、それが自分の天職だから、そう思った。シャベルの先を石にあてて研ぐと、土に刺さる瞬間がより深く味わえた。植えたいという衝動がふたたび彼のなかで頭をもたげていた。数週間のうちに、気がつくと、目覚めている時間は、耕しはじめた小さな土地とそこに植えた種子のことばかり考えるようになった」
他人には石のように見える人間の強い生きる意志がここに描かれている。今日はここまで。
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