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2021年6月 7日 (月)

東近美の「ニッポンの名作130年」に考える

再開した東京国立近代美術館にようやく行った。隈研吾展が6月18日から始まるのはわかっていたが、どうも建築展は一般に気乗りがしない。そのうえ、常設展で始まったのは「MOMATコレクション 特別編 日本の名作130年」というから気になった。

東近美の常設展示は2階から4階までだが、3フロアで約3000平米あってこれだけで普通の展覧会の2倍か3倍の広さがある。だから1階の企画展を見てからだと、疲れてとても全部は見られない。いつもは西洋美術も含む近現代美術を展示しているが、今回は日本美術のみというから期待した。

普通だとセザンヌ、マティス、ピカソ、ルソーなどを見ながら、萬鉄五郎、梅原龍三郎、安井曽太郎、藤田嗣治などを見る。つまり日本美術が西洋美術の文脈にあることを確認するわけだが、その参照なしにそれらの洋画を日本画と一緒に見ることになった。

私の今回の印象では、日本画の圧勝だった。なんといっても横山大観の40mの屏風絵《生々流転》(1923)に目を奪われる。前期は前半分の展示だったが、全部を見せる動画もあるし、全体像の写真もあった。水の流れに人生や世界を見せるこの絵は何度も見たけれど、見るたびに嬉しくなる。

この第1室には土田麦僊、速水御舟、小林古径といった名人の絵も並ぶ。土田麦僊の《湯女(ゆな)》(1918)のエロチックな表現に改めて驚く。その後に洋画が始まるが、原田直次郎の《騎龍観音》(1890)や和田三藏の《南風》(1907)を見てもなぜか日本の民俗的というか土俗的な面が気になる。

萬鉄五郎の《裸体美人》(1912)はもちろんだが、ずばりキュビスムのはずの《もたれて立つ人》(1917)さえも和風に見えてきた。岸田劉生や木村荘八の風景画もその田舎ぶりが目立つ。そして3階に降りると安井曾太郎に梅原龍三郎で藤田嗣治と来ると、ようやく洋画も個性を持ってきた感じだが、すぐに藤田の戦争画が来てしまう。

それからは急に戦後で、具体にアンフォルメルに菅井汲や田淵安一のフランス渡航組。確かにこれだと西洋と戦える感じで、次には富山治夫の《現代語感》でもう東京オリンピックの年。考えてみたら具体と同時代だった。

ところがその後に竹内栖鳳の戦前の日本画が3点並んでいて圧倒された。《飼われたる猿と兎》(1908)のリアリズムと省略の組み合わせに見入ってしまう。そうして再び横山大観と東山魁夷数点ずつ。これに比べたら、戦後の洋画が児戯に見えてくる。その後の現代美術については、後期を見に行ってから書きたい。

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