それでも日本人は「オリンピック」を選んだ:その(2)
オリンピックが始まって毎日金だ銀だと騒いでいるが、新型コロナウイルスの国内感染者はまるで神様の皮肉のようにどんどん増え続けている。あれよあれよと東京で4千人を超えて、全国では1万2千人。昨日は10都道府県でこれまで最大の感染者が出たという。まるでオリンピックの新記録のようだ。
今回、6割以上の日本人が開催を望まなかったのに、政権は突き進んだ。結局、無観客となったから、経済効果も交流もない。なぜ日本でやるのかもわからなくなってきた。
唯一よかったのは、日本でオリンピックへの疑問が大っぴらに出てきたこと。「オリンピック貴族」と呼ばれるIOC委員たちが世界を豪遊する「ぼったくり」であり、この暑い東京でやるのはアメリカのテレビの放映権料のためだという信じがたい事実をみんなが知った。
開会式で聖火の最終ランナーが大坂なおみになったことで、オリンピックのシンボルは当初の東北大震災からの「復興五輪」でも「人類がコロナウイルスに勝ったあかし」でもなく、「ダイバーシティ=多様性」となった。私は「多様性」という言葉が出ると信用しない。「言うは易く行うは難し」の典型だから。「朝日」で数日前に林香里・東大教授が書いていた。
「しかし、元来、オリンピックはダイバーシティと相性が悪い。国際オリンピック委員会(IOC)の会長は、初代からの約130年もの間にバッハ現会長を含めて9人しかおらず、全員白人男性で、1人のアメリカ人を除いて全員ヨーロッパ出身者で固められてきたという。オリンピックというシステムは、21世紀に漂流する19世紀の遺物であり、驕奢(きょうしゃ)の上に成り立ち、地政学的に偏り、汚職や不正が蔓延(まんえん)する改革不能の組織だと、ニューヨークタイムズの記事は手厳しい。」
これは知らなかった。「改革不能の組織」に日本は多額の税金を貢いで東京にオリンピックを持ってきたとは。ではオリンピックは絶対悪だとして、スポーツに間違いはないのか。勝手に個人がやるスポーツはいいが、お金を取る見世物になったとたんに怪しいと私は思う。
「アスリート」とみんな持ち上げるが、所詮はテレビで見る「見世物」の「芸人」ではないか。小さい頃から得意な分野を見つけて訓練を続けてそれで一生食べて行こうとするのは、音楽家も芸人も料理人も一緒である。1つの生き方であり、商売だろう。それを持ち上げすぎるのはどうだろうか。日本人の命と引き換えに開催されたオリンピックを機会に、スポーツそのものについて落ち着いて考えたらどうかと思う。
今朝の「朝日」でIOC委員や各国の関係者が希望する競技会場に行く「配車」を担当するボランティアに「私の車はまだか」と「詰め寄る光景が日常茶飯事になっている」と書かれていた。こんなことを素人に無料でやらせているとは。みんなボランティアやめたらいいのに。
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