イタリアのサイレント映画にはまる:その(1)
必要があって、イタリアのサイレント映画を見ている。イタリア映画は、実は1910年代は世界を席巻していた。「史劇」と呼ばれる歴史ものを得意として、ネロ皇帝などの古代ローマやギリシャ時代から、ポンペイ、ナポレオン、ジャンヌ・ダルク、シェークスピアもの、イタリア統一運動などを描いてきた。
何千人というエキストラが画面を埋め尽くし、火事や地震に追われたり、円形競技場に押しかけて残虐な戦いに歓喜したりする映像が無限に作られ、日本を含む世界中で大ヒットした。
私はこれらの「史劇」である程度記憶にあるのは一番有名な『カビリア』(1914)だけで、これは2001年の「イタリア映画大回顧」でもイタリアのピアニスト付きで上映したし、5年後くらいに最新復元版を「イタリア映画祭」の枠で上映した。
自分の授業でもこの映画がアメリカのD・W・グリフィスの『イントレランス』に影響を与えたことを、DVDの一部を比較しながら見せる。それ以外にも『クオ・ヴァデス』(13)と『火』(15)はイタリア文化会館で見たはずだが、全く記憶にない。イタリアやアメリカでもDVDになっていないので、見る機会はもうないかと思っていた。
ところが今やそれらの多くはユーチューブに英語字幕付きでアップされている。有名な作品になると、違う音楽で何種類もある。さらにトリノなどの映画博物館のサイトではストリーミングで見ることができる。
そこで私はイタリア初の劇映画『ローマ占領』(05)から見ることにした。これは1870年にイタリア軍がローマ教皇領を制してイタリア統一運動を成し遂げる場面を描いたものだが、考えてみたらこれは「史劇」だった。この10分程度の映画自体は1905年の英国や米国やフランスの映画と比べたら大したことはないが、当時のイタリアでは国民感情を刺激したのかヒットした。
そして世界各地で上映されて史劇が定着したのは1908年の『ポンペイ最後の日』。『ローマ占領』はローマの会社だが、こちらはトリノのアンブロージオ・フィルム社の製作で、当時はトリノが一番映画製作が盛んだった。そのほか、ミラノ、ローマ、ナポリなども活発だった。この映画は盲目の美女リディアが悲恋の果てに、ヴェスヴィオ火山の噴火で死んでゆく姿がなかなか印象的だった。
数年間、長くても15分くらいだった映画が長編になったのはミラノのミラノ・フィルムズ社の『地獄篇』が最初で70分強。この映画はもちろんダンテの『神曲』の「地獄篇」の映画化で、地獄で苦しむ人々の表現が凄まじい。永遠に氷漬けになった人々や地獄にも天国にも行けずに宙を舞う人々などが次から次へと現れる。
罪人の多くは男性で褌のようなものを付けているが、ヘアはたまに見えるし、女性が胸をはだけている姿もある。当時のイタリアは倫理規定はなかったのか、調べてみないと。日本では東京の警視庁が「活動写真興行取締規則」を出したのは1917(大正6)年だったが。
この映画で一番おもしろかったのは「偽善の罪」の罪人たち。鉛の重いコートを着せられて身動きができず雪のなかで並んで歩かされていた。そのコートがエレガントだったので、お洒落をするのは「偽善」なのかと思った。今日はここまで。
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