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2021年9月24日 (金)

ネオレアリズモ再考:その(1)

イタリアのネオレアリズモと言えば、ロベルト・ロッセリーニの『無防備都市』(1945)とヴィットリオ・デ・シーカの『自転車泥棒』(48)が一番有名だ。映画通だと、これにルキノ・ヴィスコンティの『揺れる大地』(48)を加えるだろう。

ところが私の中ではネオリアリズモの神髄はロッセリーニにあって、デ・シーカの『靴みがき』(46)や『自転車泥棒』はネオレアリズモに形を借りたメロドラマに過ぎない、という印象が長年あった。それはトリュフォーやゴダールなどのフランスのヌーヴェル・ヴァーグの監督たちが、ロッセリーニだけを特権的に称えてきた影響かもしれない。

エットレ・スコラ監督に『あんなに愛しあったのに』(74)という映画がある。そのなかで登場人物の一人は地方で高校教師をしているが、『自転車泥棒』にショックを受けて映画批評家になろうと決意して妻子を捨ててローマに行く、という場面があった。

これは1990年に日本で公開された。この頃はバブル期でかつレンタルビデオの売り上げも期待できたので、ロッセリーニなど映画通向けの旧作がどんどん公開されていた。『あんなに愛しあったのに』に関して故・梅本洋一さんは「出てくるのがこれがロッセリーニの映画でなく、デ・シーカの『自転車泥棒』なのが残念」と言っていたのを妙に記憶している。

そんな感じで何となくデ・シーカを馬鹿にし、ロッセリーニを神格化するような傾向が当時の映画通にはあった。それゆえか私は『自転車泥棒』は大学生の時に一度見たきりだし、『靴みがき』に至っては見てもいなかった。デ・シーカに対する偏見が変わったのは、まずは自分が関わった2001年の「イタリア映画大回顧」で彼が主演するマリオ・カメリーニ監督『ナポリのそよ風』(37)を見てからだ。

この映画でデ・シーカはローマの新聞売りで、旅行で貴族の女性と出会うハンサムな主人公を演じる。そのエレガントでユーモア溢れる身のこなしにびっくりした。そして同じ映画祭で『ウンベルトD』(52)を見て、そのいたたまれないようなリアリズムに打ちのめされた。

この時は故・加藤周一さんが見に来られて、「朝日」の「夕陽妄語」に書いてくださって嬉しかった。それから20年がたち、最近、授業の準備で『自転車泥棒』を見てびっくりした。その「いたたまれなさ」は尋常ではない。とても素人俳優とは思えない、というより、彼らが映画の内容そのものを生きている感じ。

ロッセリーニの『無防備都市』などの「戦争三部作」と違ってこの映画には戦争の影はない。世界中の大都市のどこにでもどの時代でもあるような貧困を、主人公が自転車を盗まれて取り返そうとするという、とるに足らない物語で強烈に描く。調べてみたら、ヌーヴェル・ヴァーグの父であるアンドレ・バザンも『映画とは何か』で絶賛していた。

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