『くじらびと』の漁民たち
普通は写真家が撮った映画は苦手だ。静止画像としての写真的な美学が前面に出過ぎて、映画としてのおもしろさが少ない場合が多いから。中村梵という写真家が監督した『くじらびと』を劇場で見たのは、最近、古いイタリア映画で漁民たちの出る映画を立て続けに見たから。
1本はルキノ・ヴィスコンティの『揺れる大地』(1948)でもう1本はロベルト・ロッセリーニの『ストロンボリ』(1950)。どちらもネオリアリズモの傑作だが、漁民たちから家や島や雲まですべてを組み合わせて全体を写し出そうとするヴィスコンコンティと、強烈なワンカットで大づかみに人間を見せるロッセリーニの演出の違いが気になった。
もちろん『くじらびと』をこれらの巨匠の映画と比べるつもりはない。しかし、おもしろかった。インドネシアのレンバタ島にあるラマレラという人口1500人の漁村が舞台のドキュメンタリーだが、年に鯨が10頭捕れたら、村中が暮らしていけるという。
3ヵ月もかけてすべて手作業で鯨舟を作る。木を切りだすところから始まって、一つ一つ組み合わせてゆく。そしてできると進水式をする。女性が漁船に乗れるのは進水式の時だけ。そして10隻ほどの鯨舟が出発する。何日も何日も鯨は捕れない。
鯨が見つかると、数隻が集まる。まず最初に1人が銛(モリ)を刺す。飛び上がってその勢いで刺し、海に飛び込むのだから命がけだ。実際に引っ張って行かれて死んだ者もいた。鯨は暴れて舟にぶつかる。舟と鯨はほぼ同じ大きさなので、舟は揺れに揺れ、舟の中に水が溢れる。狭い舟には10人ほどがひしめき合って、銛に繋がる紐を引いたり、水を汲みだしたり、舟を漕いだり。
さらに別の銛を差す。ほかの舟もやって来て、刺す。海は鯨の血で真っ赤に染まる。すると別の鯨がやってきて邪魔をする。その鯨にも銛が飛び掛かる。5隻ほどで2頭が捕れて、舟はそれを引きずって海岸に戻る。海岸に戻るとすぐに解体が始まる。赤みの肉ばかりでなく、皮も脂もすべて分配する。未亡人のように舟に乗らない家庭にも、ちゃんと分配される。
各家庭では、肉や脂を洗濯のように何本もの竿にひっかけて、毎日少しずつ食べる。ご飯と煮た鯨肉だけだが、おいしそう。市があると、それを持って行ってバナナや野菜と物々交換する。海岸には大きな鯨の骨だけが残っている。
映画はドローンを使った空撮や海底撮影も使いながらそれらを見せる。特に空撮であまりに美的な映像があると少し興醒めするし、音楽も時おり盛り上げ過ぎかも。それでも舟作りから捕獲、分解、食事、交換まですべて同じ漁民がやっている姿には見入ってしまった。『揺れる大地』さえも、仲買人が存在するのに、ここには彼らしかおらず、完全な自給自足だ。一見の価値あり。
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