『浜の朝日の嘘つきどもと』に当惑
タナダユキ監督の『浜の朝日の嘘つきどもと』を劇場で見た。この監督は『百万円と苦虫女』(2008)から『ロマンスドール』(2020)まで、肩の力の抜けたような摩訶不思議な演出が気に入っていたが、今回は最初から最後までどこか当惑しながら見た。
最初に朝日座で古い白黒の映画が上映されている。上映が終わると初老の映画技師はフィルムを焼き始める。そこに突然若い女がやってきて、焼くのを止めさせようとする。会話から、焼こうとしたのはD・W・グリフィスの『東への道』(1920)とわかる。
私はどうしてグリフィスから『東への道』を選んだんだろうと思った。そもそもサイレントスピードだから、普通の映写機にかけたら早回しになるではないか。そんなことを考えている間も、柳家喬太郎演じる白髪の映写技師、森田はフィルムに火をつけようとし、茂木莉子役の高畑充希は執拗にそれを止める。
柳家喬太郎という落語家の存在が、いるだけである雰囲気を語り過ぎる。何も考えていないように淡々と話すが、どこか物悲しくおかしくなってしまう。そしてそこへやってきた高畑の動機が全く見えない。それはそこから始まる莉子の回想でわかってくるが。
莉子は同じ福島県のいわき市に住んでいたが、高校生の頃、大震災後の学校に馴染めなかった。いったん東京に行って戻ってきた高校で会った保健の田中先生(大久保佳代子)と妙に仲良くなる。田中先生は映画好きだった。莉子は東京の大学を出て先生の影響で映画配給会社で働くが、田中先生と再会する。朝日座に行ったのは、田中先生からの頼みだった。
そんな過去が語られるが、どうもわかりにくい。話が飛ぶのはこの監督の特徴だが、今回は映画愛というか、田中先生も莉子も映写技師も映画が大好きで映画の題名がいくつも出てくるのが、どうもわざとらしい。この先生がすぐに男を好きになって逃げられるのを繰り返すのはこの監督らしいが、最後に好きになるベトナム人のバオ君がどうもわからない。
莉子の父親役の光石研も老いた観客を演じる吉行和子もどこか浮いている。全体としてはちょっと夢のような話をするりと愉快に語るいつものタナダユキらしさがあるのだが、どうも細部が気になる。毎日のように映画を見てそれについて考え、映画に関する文章を書き、映画を教えている私には、なによりこの「映画愛」が嫌だったのかもしれない。
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