「よみがえる台湾語映画の世界」に参加して:その(1)
最近はジャンルを問わず、映画史関係のイベントにはできるだけ参加する。ここに書いた「日本映画の女性パイオニア」の上映と座談会は面白かったし、今度は「よみがえる台湾語映画の世界」というのに申し込んでみた。「女性パイオニア」は文科省の科学研究費から資金が出ている研究プロジェクトなので、今回もそうかと思っていた。
ところが今回はすべて台湾政府側が費用を持って日本の研究者に声をかけたようだ。主催は「台北駐日経済文化代表処台湾文化センター」、共催が日本映像学会アジア映画研究会とアテネ・フランセ文化センター、協力が台湾映画・メディア文化センター、国立映画アーカイブとずいぶん物々しい。
その大げさな作りにふさわしく、映画上映前に3本のビデオメッセージがあった。台北中日経済文化代表処の所長、台湾映画メディア文化センターの執行長(女性)、そして国立映画アーカイブ館長の岡島さん。それぞれ中身のあるものだったので、幸いにして退屈しなかったが。
台湾映画メディア文化センターとは日本の国立映画アーカイブに匹敵するもので、かつては電影資料館と言ったようだが、要は映画の保存機関。そこに保存されていた台湾語映画をデジタル復元して字幕を付けたのが、今回上映される7本。
さて、「台湾語映画」(=台語片)とは何か。普通に考えると台湾で話している言葉による映画だが、そうではない。それを知ったのはわずか2年ほど前に『台湾、街角の人形劇』を見た時だ。これはホウ・シャオシェン監督の『戯夢人生』に出てくる人形劇「布袋劇」の人形遣い、李天禄の息子を追ったもの。
このドキュメンタリーで主人公は、布袋劇で使われる台湾語がどんどん廃れてきている、これでないと布袋劇はダメなのに、と嘆く。つまり台湾でかつて使われた言葉なのだ。このあたりはシンポジウムの最初の三澤真美恵さん(日大文理学部教授)の説明がわかりやすかった。台湾は17世紀前半からオランダやスペインに支配され、17世紀末に清朝が支配する。
19世紀末からの日本の支配時代も含めて、1945年までに中国からやってきた人々は「本省人」と呼ばれるが、福建省南部の「閩南(びんなん)語」が台湾で独自に発展した言葉を話す。これが台湾語で、福ロウ(にんべんに老)語とも言うらしい。1945年の時点では人口の7割が話していた。
そのほかにも客家(はっか)語や台湾先住民族の各言語や中国大陸各地の方言があった。そこに国民党政府がやってきて中国標準語を使った。そして台湾語は民衆の言葉として生き残った。台湾語映画はそのような民衆を描いた、ということらしい。今日はここまで。
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台北中日経済文化代表処 ☓ ⇒ 駐日 〇
投稿: | 2021年10月12日 (火) 08時04分