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2021年11月18日 (木)

『映画の旅人』についてもう一度

ショーレ・ゴルパリア著『映画の旅人 イランから日本へ』は味わい深いエピソードに満ちている。私がイラン映画の上映などでショーレさんを見るようになったのは1990年代だが半ばからだが、彼女には映画と関わる前の「前史」があった。

小さい頃から日本の昔話を読んで、「天皇のお嫁さんになろう」と思っていた。女子大の翻訳学科に入り、三井物産のテヘラン支店で英文タイプのバイトを始めた。日本に旅行し、78年に三井物産をやめてトーメンに入る。79年4月に日本にやってきた。三井物産にいた好きな男性を頼って。

その男性の両親の荻窪の家に5年住み、イラン大使の秘書になった。大使と中曾根元首相の通訳などを務めた。1987年に5年勤めた大使館を辞めた頃、好きだった日本人男性が去ってゆく。そして1989年にイランに帰国。

それから日本のイラン大使館で勤めていた子持ちのイラン人と結婚。イラン国営放送に勤めて、NHKの朝ドラや大河ドラマなどの吹き替えの翻訳を2年半。その時にアッバス・キアロスタミなどのイランのニュー・ウェーヴの映画もすべて見た。

91年1月、日本の永住権を持っていたこともあり、夫と再び来日。最初の映画の仕事は92年、モフセン・マフマルバフ監督の『サイクリスト』(89)の日本語字幕。NHKでの放映のためだった。その年の秋、ユーロスペースの土肥悦子さんに来日したキアロスタミ監督の通訳を頼まれた。

これから後の仕事は知っているが、1979年からの13年間の日本との「前史」は初めて知った。考えてみたら結婚しているとか子供がいるとか、全く考えもしなかった。ひたすらイラン映画のために身を捧げていると勝手に思っていた。

例えば1993年秋にキアロスタミが山形国際ドキュメンタリー映画祭の審査員として来たのは覚えているが、その時にショーレさんの一歳の子供の乳母車を夫が引いていたとは知らなかった。キアロスタミはこう言ったという。

「まず自分がお腹いっぱいたべてから、子供の面倒をみなさい。私の母はそうだった。そうしないと母親は「いらいらするから、子供に食べさせてもちゃんと栄養をとれないし、気分が悪くなって泣くんだよ」

何となく、キアロスタミの哲学が出ている気がする。彼は山形でみんなで蔵王温泉に入る日が会った時に「男が裸でいっしょに入るなんてありえない」と拒否。これもおかしい。彼は山形の後に黒澤明監督に会っている。

 

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