「民藝の100年」展に驚く
「柳宗悦没後60年記念展 民藝の100年」を見た。「民藝」と言えばバーナード・リーチや河井寛次郎の陶芸や芹沢銈介の染織がすぐに思い浮かぶが、今回の展覧会は作品紹介だけでなく、その思想的背景や社会的活動の面に力点が置かれていて、ずいぶん驚いた。
まず、「民藝」の中心となる柳宗悦は武者小路実篤や志賀直哉らの「白樺派」に属していたことも私は知らなかった。柳は大正時代に彼らと同じ我孫子に住んでいたという。そしてその縁で朝鮮半島の白磁や民画を知ることになる。それが大正時代から昭和初年にかけての全国的な鉄道網の発達による旅行ブームに乗って国内の探索へ向かう。以下はHPから。
「柳宗悦、濱田庄司、河井寬次郎ら創設メンバーは、国内外を精力的に移動し、各地の民藝を発掘・蒐集していきます。柳の場合、朝鮮の文化との運命的な出会いがあり、その後に木喰仏と江戸期の民藝の調査が続きました。関東大震災の後、柳が京都に転居した時期とも重なり、まさに彼自身が「移動」することから「民藝」の発見の旅は始まりました。彼らの関心はヨーロッパの工芸運動にも向いていました。グローバルな工芸とモダン・デザインの潮流を参照しながら、日本の各地に眠る民藝を発見していく過程を、彼らの旅の軌跡とともに示します。」
朝鮮に行ったのは1920年で、柳は1924年には景福宮内に「朝鮮民族美術館」を作っているからすごい。英国や米国からも椅子など気にいった民藝品を買ってくる。国内でもアイヌから沖縄まで、民藝=民衆の芸術を求めての旅は続く。会場には壁一面に横10メートル以上の地図があり、彼らが見つけた全国の「民藝」作品がその手前に展示されている。それらを収蔵するために、1936年に今もある日本民藝館が作られる。
私が驚いたのは、地図に福岡県に二川焼という窯が表記されていて、作品も1点あったこと。この「二川」は地図から見ても明らかに私の出生地で、私は二川小学校に通った。しかしかつて窯があったとは今の今まで知らなかった。
古い民藝作品を探し出すだけではなく、新作民藝の制作を進める。それらは京都の「たくみ工藝展」を始めとしてショップを作って売る。さらに1931年には雑誌『工藝』を発刊し、各地の民藝を写真入りで紹介する。完全な社会運動である。彼らは英国風のジャケットや作務衣を着て外国人を連れて数名で全国を民藝探索に歩いていたから、警官に尋問されることもあったという。
不思議なのは中国、朝鮮、台湾、沖縄、アイヌを歩き、それぞれの個性豊かな民藝を褒め称えながら、それが大日本帝国の理念と全く矛盾しなかったこと。各地の特殊性を主張することは大東亜共栄圏とぶつかる気がするが、民藝は戦時中も国家の庇護を得て、そのうえ戦後もそのまま活動を続けた。
せっかちな私は展覧会は普通30分強で見終わるが、この展覧会は一つ一つの展示物が魅力的で1時間たって見終わらなかった。来年2月13日まで。
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