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2021年12月28日 (火)

『アクター・ジェンダー・イメージズ』に学ぶ:その(2)

北村匡平氏の『アクター・ジェンダー・イメージズ』で私にとって興味深かったのは、「男優」の分析だった。日本映画で俳優と言えば、女優の方がどうしても目立つ。原節子、高峰秀子、京マチ子、若尾文子、吉永小百合などについては多くの分析があるし、北村氏の著作でも『スター女優の文化社会学』や『美と破壊の女優 京マチ子』で触れられている。

「男優は、現在の映像文化において時代を先導する理想像を、女優に比べて明白に呈示できていない。結局、歴史を振り返れば、任侠映画のダークヒーローのような敗者性を美化して愉悦に浸るばかりで、男優は戦後ほとんど変化を明示できず、決定的な理想像がスクリーンに実を結んでいないのではないか」

そしてこの本ではフランキー堺、渡哲也、萩原健一、山田孝之を分析している。戦後派で不可欠な森雅之でも三船敏郎でも鶴田浩二でも石原裕次郎でもないのに驚く。あるいは戦前派だと長谷川一夫、上原謙、佐野周二がいるのに。いわゆる「スター」から少し外れた4人である。

フランキー堺と言えば、私にとっては川島雄三監督の『幕末太陽伝』と『貸間あり』だ。この本でも細かい分析がされており、「彼の映画的身体は、多層化された空間に充満するフレームを超えていう存在として川島に衝き動かされる。フランキー堺はこのスクリーン内を<壊乱>し、<分裂>した窮屈な空間を、軽快に移動することができる特権的な存在なのである」

「誇張される身体を体現するフランキー堺は、現実世界の「人間」というより、アニメーションの「キャラクター」に接近する。確かに彼の人間離れしたパフォーマンスは、アニメ的だと思い至った。

1965年にデビューした渡哲也は、「政治の時代」の挫折を象徴するスターだという。「渡哲也のペルソナは、大きな野望があって社会を変革できるという希望が潰えた時代を象徴している。公権力の前に為す術もなく、堕ちてゆくこと」。私の中では『仁義の墓場』(1975)がまさにそうで、この絶望の度合いは尋常ではない。

萩原健一が取り上げられていたのは驚いたと同時に嬉しかった。私はテレビのシリーズ『傷だらけの天使』をいつも見ていたし、『誘拐報道』(1982)は学生時代に好きな邦画の1本だったから。今日はここまで。

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