柏木博さんが亡くなった
デザイン評論家で元武蔵美大教授の柏木博さんが、この13日に75歳で亡くなられていた。私は「デザイン」には全く詳しくないが、柏木さんとは20年ほど前に1年半ほど親しく仕事をする機会があった。それは、2002年1月に亡くなられたグラフィック・デザイナーの田中一光さんの回顧展を企画した時だった。
私は15年ほど新聞社の文化事業部で展覧会屋(ランカイ屋)をやっていたが、「田中一光回顧展」は私が最初に企画を提案して最後まで担当した数少ない展覧会。多くの場合、ほかの誰か(多くは外部)が企画したものを手伝ったり引き継いだり、自分が企画したが最後までできなかったり。全くのゼロから自分が立ち上げて最後までやったのはこれと「映画伝来」展くらいだと思う。
まず、田中一光さんと近かったSさんと既に別の展覧会をやっていたので、彼女に田中さんのご親族や一光事務所を紹介してもらった。あるいはSさんから展覧会をやったらどうかという提案をいただいたかもしれない。いずれにせよ、Sさんに手伝ってもらいながら、内容も会場も私が中心になって作った。
ご親族や事務所の方々と最初に相談した時に、監修者を誰にしようとかという議論になった。その時に出てきたのが柏木博さんの名前で、私が連絡をするとすぐにご快諾された。そして一光事務所で柏木さんを交えた調査が始まった。
柏木さんが監修者に決まると、私が交渉していた東京都現代美術館と大阪のサントリー・ミュージアム[天保山]も乗り気になり、翌年の6月から8月が都現美、11月から翌1月がサントリ―となった。それから柏木さんと都現美とサントリーの学芸員を交えて展覧会の内容を決めてゆく会議を月に1度開催した。
柏木さんで助かったのは、みんなに好かれたあの落ち着いて誠実なお人柄だろう。まず親族が2つに分かれており、一光さんの友人たちや一光事務所のスタッフやOBもそのどちらかを応援する形になっていたのが、「柏木さんなら協力する」という形でどうにかまとまった。私は一光さんと親しかった方々で「田中一光回顧展を支える会」を組織して何とか融和を目指したが、それは最後まで大変だった(まだ詳細は書けない)。
学芸員を交え、どういう内容でどういう展示にするかという会議でも柏木さんは学芸員たちの意見を最大限に生かされたので助かった。展示デザインは安藤忠雄さん、チラシ、ポスター、チケットのデザインは永井一正さん、カタログのデザインは勝井三男さんという案も、まず柏木さんから出てきたと思う。
冷静に最良の選択をする柏木さんと、誰にでもぶつかってゆく私とは全く違う性格だったが、これがうまく行った。一度会議を柏木さんのご自宅でやったことがあった。建築家の中村好文さんに注文された一軒家で、それをみんなに見せて回る柏木さんは珍しく得意げだった。その後も展覧会のオープニングなどでよく会ったが、一度もゆっくり話す機会がなかったのは本当に残念。
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