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2022年1月20日 (木)

岩波ホールの閉館に考える:続き

岩波ホールが制度面でほかのアート系映画館とはかなり違うことを知っている人は少ない。まず、あの映画館では都内で同じ作品をほかの映画館で上映することを許さない。もともとミニシアターは「単館系」と言われたぐらいで、各地で1か所しか上映しないものだった。

1990年代前半までそれが続いたが、それが壊れたのは『さらばわが愛 覇王別姫』(1993)年からだと聞いたことがある。その頃から渋谷(ル・シネマなど)と銀座(シネ・スイッチやシャンテ)の「2館取り」、場合によっては新宿(武蔵野館など)を加えた「3館取り」が始まった。もちろんそれは買付金額が高騰したからその回収のためだが、岩波ホールはほかでの同時上映を認めなかった。

岩波ホールでは近所のレストランなどのCMも一切流さない。あるいはほかのアート系映画館と予告編の交換もしないので、あそこでやる映画の予告編しか流れない。お互いに無料で上映しあうほうが、双方にとっていいはずなのに。

さらにこれは知られたことだが、事前に座席指定はできず、座り心地はかなり悪く、段差がないので前に座った人によっては見えにくい。若者が行こうとしない最大の理由はここにあるが、これを変えようとはしなかった。

それは恐らく中高年を中心とした会員たちの中にはネット予約ができない人も多いだろうし、そうでなくても劇場について客を見渡してから席を決める方が好きなのだろう(実は本当は私もそう)。CMとか他館の予告編が流れない「唯我独尊」の感じも自然と伝わっていることだろう。

つまりは岩波ホールはほかの「映画興行」とは違って「文化」だったのだ。それはもはや消えつつある「 」付きの文化で、あえていえば戦後民主主義が培った「教養主義」かもしれなかった。若干座りにくく、見にくくても「文化」「教養」だから我慢するのがお客も好きだったのだ。

岩波ホールは岩波書店一族の高野悦子さんがフランスで映画を学んで帰国した際に任されたホールだ。そこに戦前から良質のヨーロッパ映画の輸入で知られた東和商事を夫の川喜多長政と経営した川喜多かしこさんと2人で組んで、1974年に「エキプ・ド・シネマ」を会員制度と共に作った。つまり戦後の「岩波文化」とアート映画界のセレブが手を組んだ、究極の映画文化だった。

かつて『宗家の三姉妹』など多くのヒット作品を持ち込んだ東宝東和はもとは川喜多かしこさんの会社だし、ジャン・ルノワールなどの古典やアンゲロプロスやタルコフスキーを上映したフランス映画社は、かしこさんの娘の川喜多和子さんの会社だった。つまり1990年代までは、映画セレブたちが岩波ホールを支えていた。

だから、川喜多かしこさんも和子さんも高野悦子さんも亡くなった今、それはいつか終わるべきだった。実際はビルを持つ岩波不動産の都合だろうが、無意識のところでは岩波ホールの現スタッフも大幅に今の形態を変えるよりも閉じることを望んだのではないか。

 

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コメント

岩波ホールは単なるミニシアターではなく、[ 文化 ]である。
45年も前の学生時代から教養を育んでもらった。
絶対に閉館は認められず、
クラウドファンディングにより再建するので、協力頂きたい❗

投稿: 岩波太郎 | 2022年1月21日 (金) 22時46分

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