ポプコーンと『ラストナイト・イン・ソーホー』
シネコンで一番嫌なのは、隣に大きなポプコーンを持った人が来ることだ。若い男女が多いが、男性1人のこともある。夕方からの上映であんなバケツのようなポプコーンを食べたら、晩御飯はさぞおいしくないだろうと余計なお世話を言いたくなる。
ポプコーンは1983年に日本に上陸したシネコンと共に始まった。もっと前からあったと思うが、一般的になったのはそれからだ。シネコンはできた当初は席が広く感じた。だからポプコーンを食べ続けてデブになっても大丈夫、という人もいた。あるいはトウモロコシの世界的輸出促進のためにアメリカはシネコンを世界に広げたと唱える人もいた。
いずれにせよ、シネコンに勤める人に聞くと、ポプコーンは原価率が2割を切っており、一番儲かるという。確かに映画本体は入場料の半分しか映画館に落ちないし、パンフに至っては3割くらいだろう。都心で高い家賃を払ってシネコンを続けるには、ポプコーンがないと無理というのは本当のようだ。
それでも食べる時の「カサカサ」という音は苦手だし、あの匂いはもっと嫌だ。ピクサーとかスターウォーズとかマーヴェルとか(そのすべてはディズニー傘下になった)を見に行く時は、ポプコーンに耐える覚悟で行く。
エドガー・ライト監督の『ラストナイト・イン・ソーホー』は同じ監督の『ベイビー・ドライバー』がちょっとよかったので見に行った。シネコンだが小さいスクリーンなので油断していたら、これがポプコーン族が多かった。
そして映画自体もポプコーン族に相応しいと言うべきか、家族愛、ミステリー、ホラー、学園もの、ロマンス、ファンタジーと何でも詰め込んであって、5分おきに盛り上がった。確かに飽きる暇もないほど感覚的刺激だらけだが、まさに欲張り過ぎというべきか。
田舎で育ったエロイーズ(トーマシン・マッケンジー)はロンドンのファッション学校に入学するが、入った寮でいじめにあって、アパートを借りる。その家賃のためにバーで働くが、1960年代にスリップして歌手志望のサンディに同化する。結局サンディは歌手になるために男たちの誘惑を受け入れるが、それは惨事につながってゆく。
実はサンディの悲劇がアパートの女主人の過去につながってゆく展開はおもしろいが、若くして死んだ母もファッション学校もあまり関係なくなるうえに、サンディを襲う男たちのあまり怖くない映像が繰り返し何度も出てきてくどい。そのくどさが私の中では周囲のポプコーンにつながっていった。好きな人は好きだろう、という映画か。
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コメント
長い年月、映画ファンをやっていて、どうしても納得がいかないこと。
それは、ポップコーンの迷惑を訴えるファンがほとんどいないことです。
ポップコーンは映画につきもの?
映画を見る場所であんなに迷惑なものはありません。
カップをまさぐるガサガサ音、咀嚼するボリボリ音、
共に生理的に神経に触る音です。
知り合いの映画好きもポップコーンの音だけは我慢しなけりゃならないと思ってる、
などと寛容なのか諦念なのか、理解しがたいことを言います。
先日、東京国際映画祭のディレクターを務めていたY氏のツイートで
Y氏もポップコーン派であると知り落胆しました。
熱心な映画好きは決して上映中にポップコーンなど食べないと思っていたからです。
Y氏は「これだけはやめられません」とすら書いていました。
私だけがおかしいのか?
私だけが神経質に過ぎるのか?
でも、映画って神経で観るものではないですか?
そんな折、古賀さんのこの文章を見て大いに安堵しました。
生意気かもしれませんが、我が意を得たり、と感じました。
こう言うと妙にお感じになるかもしれませんが言わせて下さい。
このブログに感謝します。
投稿: プサマソス | 2022年1月 9日 (日) 04時40分