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2022年2月16日 (水)

『倚りかからず』を読む

私は詩集というものを全く読まない。詩人の茨木のり子さんは、高橋源一郎氏がエッセー集『ハングルへの旅』を絶賛していたので読んだ。これは抜群におもしろかったが、そこから詩集には行かなかった。最近彼女の詩集『倚りかからず』を買ったのは、たぶんフェイスブックでそれについての文章を読んだから。

文庫版に入っているのはわずか18本で、文字が大きく改行が多いので読むだけならば1時間で十分。ところがそれを持ち歩いて昼の外食や地下鉄の中などで読んでいると、どんどん味わいが出てくる。題名でもある「倚りかからず」を書き写す。

「もはや/できあいの思想に倚りかかりたくない/もはや/できあいの宗教に倚りかかりたくない/もはや/できあいの学問に倚りかかりたくない/もはや/いかなる権威にも倚りかかりたくない/ながく生きて/心底学んだのはそれぐらい/じぶんの耳目/じぶんの二本足のみで立っていて/なに不都合のことやある

倚りかかるとすれば/それは/椅子の背もたれだけ」

これはぎゅっと私の心をつかんだ。私は「ながく生きて」倚りかかることばかりで生きてきたから。公務員であることに、新聞社員であることに、教授であることに、ずっと倚りかかる人生だった。そうでなくても、少しばかり勉強ができることに、辛うじてフランス語が話せることや片言のイタリア語ができることに、映画にくわしいことに、(仕事に役立つ)友達が多いことなどに頼って、ここまで綱渡りで来た。

椅子の背もたれだけにしか倚りかからないという、背中がゴリゴリしそうな物質感の伴う潔さに惚れ惚れする。このように、茨木のり子さんの詩には生き方そのものが歌われている。それも基本的には、あらゆる「権力」から遠ざかるような政治性を帯びているが、それが身体感覚として語られる。そもそもなぜ「寄りかかる」ではなく「倚りかかる」なのか。にんべんがある分、人間味があるのか。

「時代おくれ」という詩は「車がない/ワープロがない/ビデオデッキがない/ファックスがない/パソコン インターネット 見たこともない/けれど格別支障もない」で始まる。

「はたから見れば嘲笑の時代おくれ/けれど進んで選びとった時代遅れ/      もっともっと遅れたい」と来る。これまた「倚りかからない」の一つだろう。「何が起ろうと生き残れるのはあなたたち/まっとうとも思わずに/まっとうに生きているひとびとよ」と終わる。

これは元は1999年に出た詩集だから、確かに今よりもっと古いのだが、それにしても20年ですべて時代遅れになるとは何という時代だろうか。

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