「原正人さんを偲ぶ会」に出て
昨晩、青山真治監督が亡くなったニュースが駆け巡ったが、今日は1年ほど前に亡くなられた原正人さんを偲ぶ会の話をしたい。原正人さんは、日本ヘラルド映画の宣伝部長やプロデューサーとして、数々の名作を世に出した映画人だ。ヘラルドから独立してヘラルド・エースを立ち上げ、現在のアスミック・エースへ導いた。
私は原正人さんと仕事をしたことがない。多くの映画プロデューサーとは新聞社時代に「製作委員会」でご一緒したが、彼とはそれもなかった。ただ、何度も話す機会があった。一番話したのは90年代後半から10年ほどで、主にフランス大使公邸でのパーティーや夕食会、昼食会だった。
彼はいつも同じ会社の吉田佳代さんと一緒で彼女にフランス語通訳を頼みながら、実に楽しそうに話していた。相手がルーヴル美術館の館長でもポンピドゥー・センターの総裁でも『乱』(1985)のプロデューサーとなれば、みんなリスペクトして話が弾む。人気の的だった。
私が大学生の頃、日本ヘラルド映画といえば、たぶん映画好きの学生が一番就職したい会社ではなかっただろうか。何といっても『地獄の黙示録』の配給(80)があった。それから『戦場のメリークリスマス』(83)や『乱』のような合作もあった。ミニシアターの先駆けである1981年の「とうきゅうシネマスクエア」も彼の発案によると聞いていた。
だから最初に彼と話ができた時は本当に嬉しかった。その後大学に移ってから立ち話をする機会があり、「ぜひ大学で1度講義をしてください」とお願いして快諾を得たが、そのままになってしまった。結局一度も仕事をしなかったので本来なら「偲ぶ会」は関係ないが、彼の弟子たち、アスミック・エースの吉田さん、豊島さん、荒木さん、谷島さんとは親しかったので、今回声をかけてもらった。
会場にはいってびっくり。還暦の私がほとんど一番若い感じ。かつて名刺だけ交換した、あるいは顔は見たことのある映画界の大物たちを始めとして、黒服で白髪頭のおじさんたちが山のようにいた。みんな同窓会のように声を掛け合っていたが、私はその中でおとなしくじっとしていた。
もしパーティ形式ならば、ぐるりと回って何とか知り合いを見つけて話せるが、このご時世ではそれはできない。というわけで昼の12時からなのに講演会のように椅子に座って挨拶(角川歴彦さん、戸田奈津子さん、筒井ともみさん)を聞き、花を捧げて水も飲まずに出てきた。歩きながら何人かの知り合いに手を振ったくらい。
その話を聞きながら、本当に羨ましい人生だなと思った。3人の話から映画界のみんなに愛されていたのがよく伝わってきた。私は大学生の時には本当に映画業界に入りたかった。ヘラルド映画のような会社に入って、外国映画を買い付けて宣伝し、日本の監督の合作を手助けしたいと思っていた。それがいつの間にかこんな人生になったと自分のことを振り返りながら、会場を後にした。
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