佐藤忠男さんが亡くなった
映画評論家の佐藤忠男さんが亡くなった。つい1年ほど前まで、タクシーで試写室に駆け込んで来られた元気な姿を思い出す。軽いペシャンコの布バッグを首から掛けた姿は少年のようだった。介護施設から通っていると聞いた。
もちろん「朝日」で長年映画評を書き、今村昌平監督なきあとの日本映画学校を継いで校長となり、さらに日本映画大学へ昇格させて学長を務め、「アジアフォーカス 福岡映画祭」を始めとしてアジア映画の普及に努めた実績は、業界では映画評論家の代表格だった。
しかし私にとっては長い間微妙な存在だった。個人的には何度も会っている。面と向かって話したことも20回は超すはず。夕食を共にしたこともある。しかし彼は私のことは最後まできちんと覚えていなかったのではないか。確かに原稿を頼んだことはあっても、彼とがっちりと仕事をしたことはなかった。
1980年代に大学生活を過ごし蓮實重彦の本を読んで映画に目覚めた私にとって、「佐藤忠男」という存在は旧態依然とした映画評論の象徴だった。この映画で監督は何を言いたいのか、この映画からどんなことを学べるかといった佐藤忠男さんの映画への姿勢は、なによりも乗り越えるべき存在だった。
大学院で映画を学ぶようになると、教わった先生方は「佐藤忠男さんは一回の講演はおもしろいけど、大学で一年間教えてもらう内容はない」と言っていたことを覚えている。実際に早稲田でもどこの大学でも日本映画大学以外では誰も授業を頼まなかったのではないか。だから若い私は、映画批評としてもアカデミックな映画研究としても、佐藤さんの仕事には見るべきものはないと勝手に考えていた。
よく考えたら、そもそも彼の本も文章もほとんど読んでいなかったにもかかわらず。私がその後勤務する国際交流基金で彼がさまざまな委員を務めたり、アジア映画を紹介している姿を見ても、もうほかにすることがないからくらいに思っていた。職場で「映画好き」として有名だった私は佐藤忠男さんのことが話題になると、いつも言葉に詰まっていた。
しかしながら国際交流基金がアジアセンターを作り、私が連れてきた石坂健治くんがアジア映画の上映会を始めると、フィリピン映画やインドネシア映画やタイ映画がなかなかのものであることがわかった。これは佐藤忠男さんは先見の明があったのではないかと思い始めた。
それでも自分は、ジャン・ルノワールやハワード・ホークスやカール・ドライヤーなどのシネフィル向けの映画祭を企画した。唯一、当時の三百人劇場からの持ち込みで「韓国映画祭1945-1996」をやった時に原稿を依頼したくらい。
佐藤忠男さんが実はすごいと気がついたのは、実は大学に移って彼の本を読んでからだった。続きは後日。
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