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2022年3月10日 (木)

武田潔さんの最終講義に考えた

早稲田大学教授の武田潔さんの最終講義を聞きに行った。入試の採点日だったので行けない予定だったが、思いのほか早く終わったので行くことができた。私は武田さんの授業を受けたことは一度もないし(だから「先生」とは書かない)、「最終講義」が趣味なわけでもない。

しかし、武田さんには「学恩」があると勝手に思っている。私が1984年夏にパリに留学した時、武田さんは2度目のフランス留学でクリスチャン・メッツの下で博士論文の仕上げをしておられた。誰の紹介か忘れてしまったが、10月頃に初めてお会いしたのではないか。

クリスチャン・メッツは映画記号学の第一人者として、当時の私でも名前は知っていた。そんな天才に指導してもらいながら博士論文を書く日本人はどんな人だろうと恐れていたが、フランス語会話も怪しく物見遊山でパリにやってきた私に、彼は腰が低く優しかった。映画青年特有のちょっと興奮した様子で、どのように見る映画を選ぶかを丁寧に教えてくれたのを覚えている。

まず、シネマテークの日程は一月前には翌月の予定表が入手できるから、それを見て予定を入れる。それからこことここの名画座(と名前をいくつか挙げた)の特集は何をやっているか必ず目を通す。映画は毎週水曜日に変わるので、水曜日に出る「パリスコープ」(今はなくなった文化・芸能情報誌)を見てチェックする。

新作を見るのは、それらがない時。友人との夕食もしかり。私がなんとか産経新聞の派遣の形を取ってカンヌ映画祭に行く時は「そんなに新作を見てもねえ」と懐疑的な表情だった。もちろん彼は今日は国立図書館、明日はアルセナル図書館と毎日図書館に通って論文の仕上げをしていた。

そんなことを思い出したのは、彼の最終講義で何度もパリ時代の思い出が出てきたから。講義は「映画、両義性と再帰性の魅惑」と題して、映画研究におけるこの2つの概念を追うものだった。具体的にはジャン・エプシュタイン、マルセル・プルースト、ルネ・クレール、クリスチャン・メッツの4人について両義性、再帰性の概念が出てくる瞬間を実にわかりやすく示してくれた。

その端々にパリの話が出てきた。私は1984年秋から1年間武田さんと何度もお会いしているうちに(前にここに書いたが国際大学都市の同じアメリカ館住まいだった)、私は「映画研究」は自分には無理だと悟った。あんなに古い映画ばかり見ることも、一日中図書館で調べることも、自分には向いていないと思った。

ずいぶん後で武田さんから聞いた話だと、私は会うたびに将来の夢が変わっていたらしい。武田さんは「ジャーナリストは向いているのでは」と言ってくれた気がする。当時早稲田の大学院を出て福岡に帰ってきたばかりの梁木靖弘さんは「文化のオーガナイザーがいい」と手紙に書いてくれた。結局、この2つを足して2で割ったような仕事を始めた。

だから、大学で教えるのは全くの予定外だったのだ。武田さんの講義を聞きながら、数奇な運命に近い自分の歩みに改めて考えをめぐらした。本当は向いていなかったのだ。私にはクリスチャン・メッツもプルーストも論じることは全くできない。教え始めて12年もたってから、改めてそんなことを考えた。

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