還暦になって:その(33)家族的環境
ある時思いついたが、私は大人になってからというもの、ずっと家庭的で親しみやすい環境の中で暮らしてきたようだ。大学は地方国立大学の文学部で、2年生の後期から進学した仏文学科には一学年に5~6人しかいなかった。うち半分はめったに来なかったし(でも卒業できた)。
だから先生とも仲良くなったし、先輩たちともよく飲みに行った。年末には研究室でパーティがあって先生も学部生も大学院生も参加したが、だいたい30人くらいが集まった。4年生の時に1年間留学して帰国してからは、大学院の授業にも出ることができた。
フランス人のブーヴィエ先生とは特に仲良くて、ご自宅にも何度も行ったし、彼のおかげでフランス語弁論大会で優勝したり、留学の給費試験に通ることができた。ブーヴィエ先生とはその後もよく会ったが、最近は5、6年会っていないか。
早稲田の大学院に1年間だけ行った時も、映画専攻の同期は3人だけ。だから修士、博士に加えて修士の卒業生などが集まっても10人強しかいなかった。週に1度は5、6人で飲みに行ったし、軽井沢の合宿などもあって、とにかくみんながみんなを知っていた。
それからひょんなことから就職したが、最初の政府系機関は職員全員でも130人ほど。だから1年もいたらおおむねみんなの顔を覚えた。最初は総務課で、次が事業部展示課、そして企画室だったが、どこも10人もいなくて、よく課員みんなで昼食に行った。ここは本当にみんな仲良くて、週に一度勉強会をしたこともあった。
それから30歳を過ぎて、新聞社に転職した。ここはさすがに社員が当時は1万人近くいたが、文化事業部となると東京では20人くらいしかいなかった。ほかの部の社員とはほとんど知り合うことはなく、社内の仕事で会うと名刺の交換をした。文化事業部内では、またよく飲みに行った。
当時、大きな展覧会だと4,5人、小さな展覧会や映画祭だと2人でチームを作って2、3年一緒に仕事をする。記者会見、オープニング、閉幕など何かあるごとに飲みに行った。当時は飲み代やタクシー代を会社に請求することも可能だったので助かった。さすがに同僚だけとの飲み会は請求しなかったが。
唯一、短い記者生活は居場所がなかった。文化部は東京で30人強なので大所帯ではなかったのだが、40代半ばで記者が初めての私は周囲と打ち解けることができなかった。毎日、針のむしろに座っているような感じだったが、そのくせ態度はデカかったので嫌がられていたことだろう。今考えたら、大学に移ったのはそこから抜け出したかったからではないか。
大学で教え始めたら、映画学科は専任教員が10人強でみんな仲がいい。さすがに飲み会は減ったが、家庭的な雰囲気は十分にある。もう還暦なので宴会は多くない方がいい。そもそも今はコロナで宴会どころではない。そんな感じで、一度も大きな組織に放り出されることなく生きてこれたのは精神衛生上もよかったと思う。
ここまで書いてふと思ったのは、還暦になれば多くの人が私と同じ感じではないか、ということ。私の記者時代のようにあまりに場違いの環境に置かれなければ、大きな組織でも小さなオフィスでもみんな自分の居場所を見つけてゆく。あと5年働くが、これからは「もうすぐいなくなる人」として見られるのだろうか。
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