宝田明さんのことなど
1週間ほど前に、俳優の宝田明さんが亡くなられた。彼とは身近に話す機会があった。2020年12月の学生企画の映画祭「中国を知る」のトークに来てもらった。もともとは『香港の夜』(1961)上映後に話してもらおうと学生が事務所に連絡を取っていたが、謝礼が安すぎて断られていた。
ところが「名画座かんぺ」を作っているのむみちさんが、この上映のことを宝田さんに教えたところ、「それは行きたいな」と言ったらしい。のみみちさんから学生に連絡があり、本人が来るらしいということだった。
86歳でもあるし、直接連絡を取っていたわけでもないので、とりあえず席を用意して待った。学生には上映も見たいとの連絡があったと思う。ユーロスペースの1階で待っていたら上映の30分ほど前にお1人で東急本店の方から歩いて坂を上ってこられた。車を運転して東急の駐車場に置いたとのこと。
その回は同僚の田島良一先生のトークを予定していたが、事前に宝田さんが来られたら2人でよろしくと伝えてあった。上映前に「宝田明さんがいらしてます」とアナウンスするとどよめきが起こった。席で立ってもらうだけの予定だったが、あまりの拍手に舞台へ。一言話された後に席に戻り、上映後にたっぷり30分ほど『上海の夜』の製作時の思い出を話された。
上映後はスタスタと東急へ歩いて行かれた。それから数日後、平日朝の上映にもまた1人で来られた。前日に学生に連絡があったと思う。今度は上映前と上映後にお1人で話された。ユーモアたっぷりで「宝田明の父です」と始められたのを覚えている。
学生の映画祭のおかげで、こうした思わぬ出会いが毎年ある。亡くなられた方だと半藤一利さんが、2017年の映画祭「映画と天皇」で『日本の一番長い日』(岡本喜八版)上映の時に来てもらった。87歳だったが、お1人で劇場まで来られた。この時は連絡先がわからなくて、学生が講演会に出かけて直接交渉したと思う。
トーク後は取材を受けるなど実に元気だったのを覚えている。なぜか「色紙にサインするのは苦手」と断られ、ポスターにサインしてもらった。帰りは大学のタクシーチケットを用意してお送りした。
その前だと、2012年1月の最初の映画祭「1968」で『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』上映の時に来てもらった若松孝二監督を思い出す。その年の10月に交通事故で亡くなられた時はびっくりした。76歳だった。電話では担当の学生がさんざん怒られていたが、お会いすると実に優しかった。上映前に1階の野外のカフェで話して寒かったのを覚えている。酒は全く飲まれなかった。
宝田明さんのことを考えていたら、またまた古い話になってしまった。新聞社から大学へ転職して有名人と会うことはもうないと思っていたが、そんなことはなかった。
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