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2022年4月23日 (土)

また「鏑木清方展」を見る

一日中家にいて学会誌の論文査読をしていたら、いいかげん気が滅入ってきた。夕方に思い立って行ったのが、東京国立近代美術館の「没後50年 鏑木清方展」。これは3月に見ていたが展示替えが多く、全部を見ようとしたら3回は行く必要がある。2回目の時期は過ぎていたが、もう1度見ようと思った。

百点ほどの展示のうち、3月になくて今回あったのは十点ほどか。まずは《たけくらべの美登利》(1940年)を見たいと思った。戦時下の東京でこの画家が「観音教のように、朝夕読誦するほどの信仰の的となっていた」樋口一葉の『たけくらべ』を、どう描いたのか。明治時代の小説をどう想像したのか。

少女から大人に変わるラストを描いたと言うが、家を継いで僧侶になることを決めた幼馴染の信如からもらった水仙を右手に考え込む姿は明らかに成人のもの。真面目過ぎる表情にある種の戦争の影を見ることも可能だが、むしろその明治憧憬の強さが全体を支配している。今はもうなくなった姿という感じか。

今回気になったのは、福富太郎のコレクション。福富は「キャバレー王」として私が小さい頃よくテレビに出ていたが、彼の所蔵で前期になかった秀作がいくつもあった。「歌舞伎」のセクションにあった《薄雪》(1917)は近松の『冥途の飛脚』をもとにしたものだが、男女が野原で寄り添う哀れな姿は溝口健二監督の傑作『近松物語』を思わせた。

《道成寺(山づくし)鷺娘》もまた歌舞伎に材を取ったものだが、恋に狂う2人の娘の姿はほとんど「あやしい絵」(という展覧会が去年同じ美術館であった)の世界。鷺の化身である女が白無垢に身を包み、手さえ見せずに細い目だけで激情を表す。福富コレクションにはどれも濃厚な物語性がある。

同じ福富の所蔵で《京橋金沢亭》(1935)は小品だが、寄席の中入りを描いた庶民の姿に興味が尽きない。キセルを吸う粋筋の女達に友達と話し込む年配の男、お茶を運ぶ女など、実に細かい。そもそも金沢亭は関東大震災でなくなっているから、これまたノスタルジアの風景だろう。この絵には中央に円朝のポスターがあるが、その横に傑作《三遊亭円朝像》(1930)が展示してあった。

《一葉》(1940)もそうだが、この画家には珍しい肖像画で、美人画と違ってかなりリアルに表情を描いている。円朝の透徹した視線は、三部作《築地明石町》(1927)、《新富町》(1930)、《浜町河岸》(1930)にも通じる。この時代のもので今回の展示で初めて見た屏風絵《讃春》(1933)もよかった。

これは右隻には皇居前広場に立つ雙葉女学校の制服姿の2人を描き、左隻には清洲橋を背景に船上で暮らす母子を描く。完全な「格差」の世界だが、春はどちらも柔らかに包み込む感じが出ている。

こんな具合で後期だけの展示も見る価値があった。今年必見の展覧会。5月8日までだが、GWになる前の平日がオススメ。展示リストには京都会場のみの展示作品が12点も書かれていた。京都に行けということか。

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