『高台のある家』に考える:自分のこと
水村節子著『高台のある家』を読んで一番考えたのは、人はこれほど10代の記憶を克明に保つことができるのだろうか、ということだ。それも78歳になってから、7歳から20歳くらいまでのことを思い出せるだろうか。自分のことを考えてみた。
この小説の記憶の強さは、日本が昭和初期から敗戦に向かう激動の時代だったからかもしれない。今のウクライナのような状況だったら、子供たちは何でも記憶しているだろう。私のように昭和30年代半ば、池田勇人首相が「所得倍増計画」と言い出した頃に生まれた者の多くは、右肩上がりの高度経済成長の社会の中で、「普通に明るい」生活を送ったのではないか。
小学校から高校までで、「暗い」思い出は少ない。本当は10歳ころに父の会社が倒産したのは最大の悲しい思い出のはずだが、別に家を出たわけでも学校に行けなくなったわけでも毎日の食事に困ったわけでもない。両親は大変だったと思うが、能天気な私は相変わらずのガキ大将で、同じような毎日を送った記憶しかない。
一番嫌だったのは、その直後に父親が剣道を習わせたこと。私は今と同じ瘦せっぽちで屁理屈ばかりこねていたから、父親は近くの剣道の先生を見つけて、通わせだした。当然、剣道には防具も竹刀も剣道着も袴もいるが、父はどこからかそれを買ってきた。
剣道は週2回くらい町の公民館で習ったが、やり出すとおもしろくなった。しばらくすると試合に参加するようになり、小学校6年生の時には町内で6名が選ばれて全国大会に参加することになった。そのあたりのことは既にここに書いたので繰り返さない。
中学生の時は剣道部にいて3年生の時はキャプテンだったが、一番強いわけではなかった。剣道はそれでおしまいで、高校は私立の進学校に行った。父親は3年生になるとそこに通るように塾を見つけて来た。私は言われるがままに毎週日曜日に通った。予定通り進学校に行き、それから肝臓を悪くして入院した。
高校は男子のみの受験勉強ばかりする高校であまり楽しくはなかったが、別に嫌だった記憶もない。2年生の頃から肝臓で入院したのが数少ない「暗い」思い出かもしれない。そうして大学に行った。なんとも平凡で、小説にしたくてもできない。
『高台のある家』のなかで娘が一番記憶にあるのは、24歳も年が離れた両親の微妙な関係である。最初は歳の差さえ気がつかなかったのが、次第に何かを感じ始め、姓の異なる自分の兄や姉の存在を知ることとなる。この「めざめ」の過程がこの小説で一番おもしろい。今日はこのあたりを書こうと思ったが、自分の話で終わった。
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