ホチキスの針に考える
毎日やっている作業の中に、「ホチキスの針はずし」がある。シャツがクリーニングから帰ってくると、番号入りの紙のタグがホチキスで止められている。私は長い間それを「燃えるごみ」にそのまま捨てていたが、よく考えたら針は燃えないだろう。さらに紙タグは資源ごみになるとも考え出した。
そう思って、この1年くらい前から2本の針を外して「不燃ごみ」へ、紙タグは「資源ごみ」の紙製品でまとめることにしている。これが意外に面倒。朝、時間のない時にシャツについたタグをはずして、さらにホチキスの尻の部分を使って針をはずして分別するのだから。
大学では入試関連などシュレッダーをかける書類が多い。その機械にはホチキスの針は大丈夫だと表示されている。シュレッダーだから針も粉々になると思うのだが。最近、ホッチキスの針の箱を見ていたら、「ホッチキス針は古紙の再生紙工程で支障ありません」としっかりと書かれているのを見つけた。
とりあえずネットで調べると、以下の論理のよう。紙は再生の際に水に溶かす。その際に重い針は分離できる。しかしできたら針を混ぜない方が手間がかからない。そうであれば、やはり針は分離してから紙資源用に出そうと思った。
実はこの1週間ほど、昨年度のいらなくなった書類を処分していた。ゼミ誌や卒論の企画書とか、インターンの希望とか。すると多くにホチキスが付いている。それを一つ一つ外すのはかなり手間だ。1時間ほどで全部終わったが、「エコ」という自己満足のような気もしてきた。
「エコ」と言うならば、紙を使うこと自体がおかしいのかもしれない。コロナ禍でネットを使ってデータをやり取りすることが増えた。論文もPDFで読むことがあるが、私の場合は印字して赤ペンを持って読まないと本気になれない。学会誌掲載のための査読もやっているが、私はわざわざ印字してペンを持って読む。
自分が書いた原稿の校正も、赤を入れてスマホで撮影して送ることが多い。その方が何よりも早い。それ以上に紙で読まないと冷静な判断ができない気がしている。これはやはり時代に逆行しているが、私は頭の働きがすべて紙文化に結び付いている世代なのだろうと思う。
新聞は朝コーヒーを飲みながら紙をめくるから楽しい。6年前にパリに半年いた時Kindleを買ったけれど、結局ほとんど使わなかったし、帰国後は1度も触っていない。本は紙の感触がないとダメである。こんな世代がまだまだ多いのではないか。
私の紙への依存度は極めて高く、この「反エコ」な生き方はすこしばかり紙資源を回収してもホチキスの針を別にしても、そんなものではとても取り戻せないに違いない。そんなことを考えていたら気が滅入ってきたが、それでも私はこれからも紙と共に余生を過ごしたい。
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