『お墓の未来』に考える
先日、「朝日」の夕刊で日本にいるイスラム教徒の墓の問題が1面トップだった。要は日本は99%以上火葬だが、イスラム教徒はすべて土葬であり、その場所を見つけるのが難しいという話。イスラム教徒のために土葬を受け入れる墓地が紹介されていたが、驚いたのは外国では火葬が少ないということ。
「英国火葬協会の統計によると、日本の火葬率は99・97%、フランス39・01%、イタリア30・68%、米国54・58%、韓国88・01%(いずれも2019年)と比べても突出している」「「土葬は昭和の終わりまでは一般的だったが、平成に入り激減した」。公衆衛生を重んじる生活改善運動の影響や火葬場の数が増えたことなどから、徐々になくなったとみられるという。」
火葬場での焼き場に何度か行ったからそういうものかと思っていたが、昔はそうでもないらしい。この記事では書いていないが、たぶん最近の日本では「お墓」自体の概念が揺らいでいるからではないか。そんなことを考えながら前に買っていた島田裕巳の新書『お墓の未来 もう「墓守り」で困らない』を読んだ。
日本では1947年の火葬率は53%だったという。今では年間128万人がなくなり、ほとんどが火葬。欧米の火葬は温度が高く、時間も長い。骨は残らず、遺灰も持ち帰るかは遺族に任されている。持ち帰る場合は、撒く。
「そもそも仏教には祖先祭祀という考え方自体がありませんでした」「仏教は家社会を否定する宗教とも言えるわけですが、それを補ったのが儒教でした」「家の中から仏壇が消えたということが、実は、墓を重視する傾向に結びついているように思えます」「今のような墓参りの習慣ができたのも、実は戦後のことです」
この本にはこうした「目からうろこ」の指摘がどんどん出てくる。さて自分を振り返って考えると、実家には仏壇があるし、近くの寺に両親の墓もある。しかし私は学生時代に一人暮らしを始めてから40年以上、家の中に仏壇はない。もちろん墓も買っていない。
子供もいないので、死んだ後に「墓参り」をする人はいないだろう。すると墓は必要だろうか。火葬して骨をどこかに撒いてしまえばおしまい、でいいのではないか。戒名などは絶対にいらない。坊さんに払う金額で戒名の「格」が違うと聞いてからは、本当に嫌になった。「戒名というのは格差社会を前提にしているだけでなく、ときには差別を助長するものがあります」
勝手に骨を撒いてもらうとして、いったい誰がやるのか。誰かに頼んでおくとしてもどこに撒くのか。「海の場合には、所有地というものは存在しないので、どこでやっても構わないのですが、観光地や漁場ではやらないことがマナーになっています」「これが、山となると必ず所有地がいます」。これは面倒だなあ。
この著者は「0葬」を提案する。葬儀屋に遺骨を引き取ってもらうことで、棺桶代など込みで30万円程度という。それでいいのかな。
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