川崎賢子著『宝塚』を読みながら:続き
コロナ陽性の「自宅療養」で読書の時間が増えるかと思ったら逆だった。考えてみたら、私が本を読むのは電車の中が多い。大学への往復、映画や美術展を見る時に必ず空いた時間に読む。1人だと映画館に着いて始まる前の5分間でも、外での昼食を待つ10分間でも読む。
ところが「自宅療養」は外出禁止が原則である。実を言うとコンビニには毎日行っていたし、後半は昼食も食べに出かけていたが、さすがに地下鉄や電車には乗らなかった。だからほぼ10日間、本を読む習慣を失ってしまった。
家にいて、ひたすら原稿を書いていた。そのために必要な映画は見たし、手元にある本は参照したが、関係のない本は読む余裕がなかった。執筆に疲れるとソファで10分ほど目を閉じる。それでも疲れが取れない時は音楽を聴くか、近所を散歩した(これも禁止だが)。
そんなわけで「自宅療養」前に8割読んでいて、その後読み終えたのが川崎賢子さんの『宝塚 変容を続ける「日本モダニズム」』。これは前に書いたように1999年に出た『宝塚 消費社会のスペクタクル』の改訂版だが、その後出たさまざまな研究者の成果も紹介している点が一番の違いのような気がした。
まず基本的な「宝塚」の位置付けとして、「プロローグ<宝塚>で読む近代」に「現在も生命を失うことのない阪神間モダニズムの精華である」と記されている。関西に住んだことのない私は「阪神間モダニズム」がよくわからないが、関西の大学の集中講義のために何度か宝塚ホテルに1週間泊まって、毎日阪急電車に乗ると感じた住民の「余裕」がそうかもしれない。
あるいは美術であれば、私がかつてイタリアとドイツでの回顧展に関わった「具体美術協会」の1950年代から60年代の活動もその流れの上にあるだろう。その創立者、吉原治朗は吉原製油のボンボンだったし、それは一緒にイタリアなどに行った息子さんやお弟子さんたちからも十分に伝わってきた。
「宝塚の舞台を知らない読者は、ひたすら現実から逃避した荒唐無稽なスペクタクル、センチメンタリズムで薄められた時代錯誤のロマン、というふうに宝塚の舞台にたいする先入観をいだいているかもしれない」。私の場合まさにその通りだが、「厳格な規律、過酷な鍛錬に耐えて成長し進化する、宝塚の生徒たちの技芸に観客がみいだすのは、限界に挑戦し、可能性をひらき、力にみちた、彼女たちの生のドラマなのだ」と書かれるとびっくりする。
今日はここまで。まだプロローグなので、いつかせめて「男役」の謎をめぐる部分だけでも紹介したい。
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