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2022年7月31日 (日)

「知的なインテリゲンチャ」とは

一昨日閉館した岩波ホールをめぐる「朝日」の記事の中に「知的なインテリゲンチャ 集まる場所」という見出しがあって驚いた。これは閉館の2日前の夕刊1面で、このニュースがこれほど大きく取り上げられたことにまずびっくりした。1月末にさんざん報じられたのに。

さきほどの見出しは、その冒頭にある山田洋次監督の発言から来ている。「岩波ホールは知的なインテリゲンチャが集まる場所でした」「ところが今は世の中が反知性主義になってしまった。不幸な時代です。岩波ホールも、近年はヒット作が減ったように感じます。知的な映画が見られなくなった時代を私たちはどう考えればよいのでしょうか」

「インテリゲンチャ」は知識人を指すから、「知的なインテリゲンチャ」は同義反復であることは置いておくとして、インテリゲンチャという言葉は1980年代、私が大学生の時に既に崩壊していたように思う。このドイツ語は戦前の旧制高校から来たものだし、あえてその頃のイメージだと旧制高校出身の加藤周一などがそれに当たるかもしれない。

しかし時代は蓮實重彦、柄谷行人、浅田彰、中沢新一各氏らのポストモダンが華やかな頃で、映画館で言えば岩波ホールは既に1980年代半ばには時代遅れな感じで、ユーロスペースや六本木シネヴィヴァンやシネマライズや日比谷シャンテで、ピーター・グリーナウェーやゴダールやホウ・シャオシェンやジム・ジャームッシュを見るのが「知性」に思えた。

私は80年代前半は福岡の大学生だったが、年に1度東京に行っていた。岩波ホールでアリアーヌ・ムニューシキンの『モリエール』やアンジェイ・ワイダの『ダントン』などを見ながら、「古いなあ」と思った記憶がある。

「朝日」に「主な上映作品」が13本載っていた。時代の先端だったのはエルマンノ・オルミの『木靴の樹』やテオ・アンゲロプロスの『旅芸人の記録』(共に上映は1979年)、ワイダの『大理石の男』、ヴィスコンティの『ルードウィヒ 神々の黄昏』(同1980年)あたりまでではないか。

これらの作品を配給したフランス映画社もヘラルド映画も東宝東和も、だんだんと岩波ホールから離れて行った。よく勘違いされるが、岩波ホールはそれらの作品をリスクを負って買い付けしたわけではなく、配給会社からのオファーを待つ立場にある。配給会社は新しくて椅子が良く、集客力のあるほかの映画館へ流れた。それは40年前から始まっていた。

山田洋次監督ともう1人の赤松良子さんのコメントもほぼ同じ。40年前から感覚が変わっていない2人を夕刊トップに並べて彼らの発言をありがたがる古い読者におもねる「朝日」も情けない。これだけの分量の紙面ならば、クールな分析も欲しかった。

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