『画家たちの「戦争』をめぐって:その(2)
第二次大戦中の従軍作家というのは、火野葦平や林芙美子が1938年に中国に行って『土と兵隊』や『戦線』などを書いているのが有名だが、これらは出版社からの陸軍報道部派遣の形を取っている。つまり出版社から書く場所を用意されて頼まれたから行くわけで、罪悪感はあまりないだろう。
画家の場合は出版社などに頼まれるのは難しい。それでも河田明久の解説によれば、1938年に陸軍画家協会が結成されて、翌年陸軍美術協会に改組された。つまり協会に登録する形で陸軍に従軍を認めさせたのだろう。1939年の時点で「二百名を超える画家が戦地へおもむいていた」
「従軍が始まった当初、現地軍の側では、押し寄せる従軍を受け入れる体制がまだ整っていなかった。「個人の資格で従軍した向井潤吉は、必要な経費はすべて自弁したという」。彼は陸軍画家協会ができると会員となる。
本に載っている向井潤吉の『蘇州に影をおとす上空の飛行機』(1938年、福富太郎コレクション)はすさまじい迫力だ。蘇州の街に低空飛行する飛行機から見た街並で、画面の1/4ほどに飛行機の黒い影が屋根の上に写っている。実際に飛行機に乗らないととても描けないだろう。そのうえ、ほかの飛行機の戦争画と違って、ここには敵の飛行機も軍艦もない。
ただ、日本軍は中国を支配しているぞと言わんばかりの絵だ。そういえば、昔、世田谷美術館分館の「向井潤吉アトリエ館」を取材したことがあった。彼は戦後、日本各地に残った藁ぶきの屋根の民家を探し回って絵に描いている。いわゆる「失われつつある古き良き日本」だが、これと飛行機から見た蘇州は同じ画家が描いたとはとても思えない。
それも強制されて戦争画を描いたわけでなく、自ら志願して最初は自費で中国にいたわけで、そういう画家が1939年に200人もいた。つまりは「いてもたってもいられなかった」のだろう。海軍と陸軍も1940年頃から画家に「作戦戦争画」を依頼する。依頼されるには陸軍美術協会の会員でないといけない。
さらに朝日を始めとする新聞社が「聖戦美術展」「大日本戦争美術展覧会」などを企画し、全国を巡回する。「社内の学芸部や社会部に蓄積された美術界の人脈を生かして公式の従軍画家、作戦記録画家をあっせんすると同時に、戦争美術の公募展を開催し、そこに並んだ戦争記録画や一般の入選作を展覧会に仕立てて列島内外を戦争美術の一般的なあり方は、ある意味、戦時下における朝日新聞社の独占的な文化事業だった」
これらの美術展はどれも全国巡回で数百万人を動員した。これは相当の収益になるはず。こうなると、一番悪いのは「朝日」かもしれない。新聞紙面で戦争を煽るだけでなく、文化事業でもやっていたのだから。
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