三宅一生さんが亡くなった
ファッション・デザイナーの三宅一生さんが亡くなった。私の場合、5年おきくらいによく買うブランドや店が変わる。イッセイ・ミヤケはそんななかで長年コンスタントに買った唯一ではないか。会社員になって1年くらいたった頃、ダブルのスーツを買ったのが最初だと思う。
ダブルなのに軽快で、生地に手作りのような感触があった。それからセールの案内が来るようになり、黒や白のシャツやパンツを買った。真っ白のバスケット・シューズも一度買った。
30代から40代にかけてはフランスやイタリアへの出張が増えて、現地でスーツやシャツを買うことが多くなった。たぶんフランス人やイタリア人と交渉をしているうちに、同じような服を着たいと思ったのだろう。ちょうどその頃フランス年やイタリア年で、両国の美術展や映画祭をたくさんやっていた。
40代後半に大学に移ってから、イッセイ・ミヤケの新素材のコートを3着も買った。それまではアルマーニの10万円ほどのコートを着ていたが、こちらの方が断然に軽かったし値段も半分以下でずっとお洒落に思えた。2年ほど前にメンズから撤退する時のセールでは白いシャツや黒のジャケットも買った。
仕事の関係で三宅一生さんと何度か会ったのは、2002年1月にグラフィック・デザイナーの田中一光さんが亡くなられてから。翌年に彼の回顧展を東京都現代美術館と大阪のサントリー・ミュージアムで開催したが、その準備で何度か相談に伺った。
一光さんの遺族にもめごとがあったこともあり、私は彼のデザイン界の友人たちからの支持を取り付けるために「回顧展を支える会」を作って、安藤忠雄さん、横尾忠則さん、福田繁雄さん、永井一正さん、粟津潔さんなどの著名人に加わってもらった。その時に一人だけ「入らない」と言ったのが一生さんだった。
遺族問題が原因だったが、彼にはどこか「自分一人の道を行く」という感じがあった。もちろん展覧会には協力してくれて、一光事務所にも残っていないイッセイ・ミヤケのポスターなどを貸してもらった。そんなこんなで何度も会ったので私のことはその後も覚えていてくれて、広尾のフランス大使館で会うと向こうから「古賀大さん!」と声をかけられた。
「太」が「大」になったのは、彼の有名なお弟子さんに藤原大さんがいたからだと推察するが、あの人懐っこい笑顔で足を引きずりながら歩いて来られると、とても訂正する気にならず両手を握った。私のような者にも優しい方だった。亡くなって身内による葬儀が終わってから発表し、送る会などをしないというのも、一生さんらしいスタイルだと思う。
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