« 『画家たちの「戦争」』をめぐって:その(1) | トップページ | 『セイント・フランシス』にため息 »

2022年8月22日 (月)

神楽坂で四半世紀が過ぎ

ある時ふと気がついたが、神楽坂に住み始めて今月の今頃でちょうど25年になる。つまりは四半世紀も過ぎたが、生まれてから同じ場所にこれほど長く住んだことはない。25年のうち、前の職場と今の大学がちょうど半分ずつ。

なぜ神楽坂に住もうと思ったのか、どうも記憶はない。20代の頃年上の人々となぜか神楽坂で飲んだ時に、「こんなところに住めたらいいなあ」と彼らが言い合っていたのを覚えている。そんなことが頭のどこかにあったのか、ある時新築のチラシを見て住みたいと思った。仕事帰りに一人で散歩して居酒屋で一杯飲んで、ここにしようと決めた。

確かに住んでみると、いい居酒屋、小料理屋、寿司屋、中華、イタリアやフランスやスペインの料理店などいくらでもある。しかし考えてみたら引っ越してきた頃からよく通った店は、今やことごとくなくなっている。

今残っているのは、神楽坂下からうなぎの「志満金」、中華の「龍公亭」、居酒屋の「鮒忠」、坂上だと和食の「清久仁」くらいではないか。どこもみんな土地や建物を持っていそうなところばかり。やはり借家での飲食店は長続きしないのか。

食べ物屋でなければ、下から「陶柿園」や「丸岡陶園」の陶器店か、和風の草履や傘を売る「助六」か、漱石が原稿用紙を買っていた文具の「相馬屋」か、これまた土地持ちだろう。どこも昭和から時間が止まったかのようだ。

かつて行った飲食店ははほとんど坂上。洋食の「ピエトロ」や「三好弥」にもう一つ、人気の洋菓子店「オー・メルヴェイユ・ドゥ・フレッド」のあたりにも小さな洋食屋があった。毘沙門天のそばの洋食「田原屋」は鴎外の御用達だったと聞くが、これは住み始めて2、3年で潰れた。

最近、私の住む神楽坂はずれを「奥神楽坂」と呼んでいるのを見て、吹き出してしまった。単なる「はずれ」なのに。そういえば昔から住んでいる知り合いは「矢来下」と呼んでいた。そこの「和膳 かねこ」も「白水」も「あや」も、何十回も行ったけど、みんななくなった。

自分が住んだ後にできた店に行くと、どうも先輩づらしたくなる。「ここには、前にラーメン屋がありましたね。その次はイタリア料理店で」などと自慢する。あと10年もしたら、もう長老のような顔をしているのではないか。

それにしても、九州の片田舎から出てきて土地の高い東京の都心に住むことができたのは、何とも運がよかった。

|

« 『画家たちの「戦争」』をめぐって:その(1) | トップページ | 『セイント・フランシス』にため息 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 『画家たちの「戦争」』をめぐって:その(1) | トップページ | 『セイント・フランシス』にため息 »