蓮實重彦『ショットとは何か』を読む:その(1)
蓮實重彦さんが今年になって2冊の単行本を出した。4月の『ショットは何か』と7月の『ジョン・フォード論』。最近一緒に買って『ジョン・フォード論』から読みだしたが、重いし難しいしでインタビュー形式の『ショットとは何か』に移った。
まず奥付を見てびっくり。4月末に出たのに6月20日で既に四刷である。映画の本は売れないと言われて久しいが、『ショットとは何か』という抽象的な題でも3回の増刷がすぐに決まるとは、ハスミ神話はまだまだ生きているのだと思った。それから蓮實さんが1936年生まれで、今年86歳であることにも驚く。私が仕事をしていたのは90年代だったから、30年はたつ。
その年齢もあってか、この本は「言いたいことをストレートに言う」調子になっている。一言で言えば、彼には絶対的に好きな映画やショットがあって、それは国内のみならず海外でも必ずしも理解されていない、ということ。その典型がドン・シーゲルの『殺し屋ネルソン』(1957)で、彼は封切り時に見て「いきなりとち狂った」
しかしまわりは誰も評価しないで「孤立無援の状態に陥っていた」が、「銀座の洋書店においてあったフランスの「カイエ・デュ・シネマ」誌が『殺し屋ネルソン』をある程度評価していることを知り、ことによると世間の評判とはまったく異なる自分の判断が間違いではないかもしれないという錯覚から、映画を語りはじめたわけです」
ちなみに私はこの映画を見ていないが、蓮實さんの「断言」の始まりはここにあるようだ。この本には、内外のいわゆる「映画事典」でもこの作品はほとんど取り上げらえていないことを執拗に示す。
そして、ジャン=マリー・ストローブが1966年にインタビューで『たとえば、リュミエール、グリフィス、フォード、ラング、ムルナウ、ルノワール、みぞぐち、スタンバーグは、たえず刷新していた。たとえばエイゼンシュテイン、黒澤、ウェルズ、レネは、刷新しなかった」と述べたことを読んで、納得する。
蓮實さんによれば「刷新した」監督は「撮影」の映画を作り、「刷新しない」監督は「演出」の映画を作る。彼は徹底して「撮影」の映画を擁護する。つまり現実をカメラで捉えた瞬間に才能があるかどうかは明らかになり、それがわからない奴はダメだということになる。
こうなると映画を見るセンス、撮影をするセンスだけが問題となるが、この本はアンドレ・バザンとジル・ドゥルーズという映画批評に決定的な影響を与えた2人を批判し、さらにデヴィッド・ボードウェルの「古典的ハリウッド映画」の概念にも異をとなえている。これらについては後日書く。
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