蓮實重彦『ジョン・フォード論』を読む:その(1)
ようやく蓮實重彦著『ジョン・フォード論』にたどり着いた。重いので映画を見に行ったり大学に出かけたりする際に持って行くのを避けていたら、いつまでたっても読めない。つい新書や文庫に手を出してしまう。そこである時、昼食でも散歩でもどこにでも持って行くことにして読み進めた。
オビに「『監督 小津安二郎』と双璧をなす、蓮實映画批評の金字塔」。『監督 小津安二郎』は1983年、私が大学生の時に出た。夢中で読んだが、よくわからなかった。それでも「食べること」「晴れること」などに分けて全作品を分析してゆく独自の手法に唸った。これはとにかく細部を何度も見て覚えていないと書けない、と思った。
『監督 小津安二郎』が書かれた時は、まだVHSも普及していなかった。個人的に覚えているが、VHSのレンタルが普通に始まったのは1986年頃からだった。私はそれこそハスミさんや山田宏一さんの本に影響されて、1984年から1年間パリに留学して500本を超す映画を映画館やシネマテークで見たが、帰国して半年後に早稲田でビデオレンタル店の棚を見てその努力は無に帰したと思ったものだ。
小津論から39年、さてフォード論はどうなのだろうか。この判断が私には難しかった。まず83年の大学生の私は小津の映画は20本ほど見ていたが、その多くは記憶にあった。ところが今や大学で映画を教えているというのに、フォードの映画で細部まで覚えているのは授業で扱ったことのある『駅馬車』と『荒野の決闘』くらい。
この40年ほどの間に、フォードの映画は20本以上は見たはずだ。しかしほぼ記憶にない。アメリカ映画でも、ハワード・ホークスやアルフレッド・ヒッチコックの映画はもう少し覚えているのに。どうもフォードの映画とは相性が悪いようで、「何度も見たい」という気にならない。これは、この本の序章に書かれている「バザンの呪い」とは別のものだと思う。
そのうえ今回のフォード論は小津論よりもさらに微に入り細に入り書かれている。「温めた時間の長さ」もあるだろうし、やはり海外のDVDさえ簡単に買える時代になったこともあるだろう。驚異的な映画の読解力と記憶力のハスミさんも、DVDがあれば細部を確認しただろう。
だから、今回のフォード論は「すごいなあ」と思いながらも飛ばし読みになってしまった。まず冒頭の「バザンの呪い」とは、フランスの映画批評を革新した『カイエ・デュ・シネマ』誌を作ったアンドレ・バザンは、明らかにフォードより、ウィリアム・ワイラーを評価していたことから発する。
1958年に亡くなった後もその「呪い」は続き、ようやく1960年代半ばになって『カイエ』誌がフォードをまともに扱うようになった。ハスミさんは4月に出した『ショットとは何か』においてもアンドレ・バザンの誤りを指摘している。もちろんそれは評論家としての功績を十分に認めたうえでのことではあるが。
ほかにも「フォードを憎悪する道徳的な義務感」や「ブレヒトの影響」に触れているが、簡単に言えばフォードはマッチョな人種差別や家父長制や愛国主義の映画を作ると思われてきたので、これまで評価されなかったということ。今日はここまで。
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