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2022年8月20日 (土)

蓮實重彦『ショットとは何か』を読む:その(2)

さて蓮實重彦著『ショットとは何か』で一番驚いたのはフランスの哲学者、ジル・ドゥルーズの『シネマ』1と2及びアンドレ・バザンを批判していることである。この2人はフランス寄り(つまりヌーヴェルヴァーグ系)の映画評論家や映画研究者にとって、長い間「神様」のような存在だった。

それがフランス系の日本支部長のようなハスミさんが正面から批判したのは、ちょっとびっくりした。この本は4月29日に出ているが、実はわずか10日後の5月9日に出た別の著者の本でこの2人を批判しているものがあった。岡田温司著『ネオレアリズモ』である。こちらはイタリア美術史の専門家だが、とにかくイタリア文化全般に詳しい。

蓮實氏のドゥルーズ+バザン批判を岡田氏の批判と比べると実に対照的で、かなりおもしろい事実が浮かび上がってくる。岡田氏は基本的に2人のフランス人はネオレアリズモの一部しか見ずに勝手な理論を打ち立てているが、それを裏切る映画や場面は山ほどあるよ、という論点に立つ。書いてはいないが、この2人を守護神にする日本のフランス系研究者をバカにしている感じが伝わってくる(のは私だけか)。

バザンの言う、奥の深い画面や長回しによって現実を丸ごと捉える「純粋映画」も、ドゥルーズの言う行動する人ではなく見る人によって感覚として捉えられた「光記号」と「音記号」も、ロッセリーニやデ・シーカには当てはまるが、ジュゼッペ・デ・サンティス、アルベルト・ラトゥアーダ、ピエトロ・ジェルミ、ルイジ・ザンパには当てはまらない、というのが岡田氏の要点である。

彼はさらに実は『無防備都市』にも『自転車泥棒』にもこの2人の論者の分析が当てはまらないコミカルな場面があると指摘する。そしてネオレアリズモの雑種性を考えるうえで、多くのネオレアリズモの監督と組んだ脚本家のチェーザレ・ザパッティーニを中心に据えて述べてゆく。そしてネオレアリズモを1950年代後半から出てきた「イタリア式喜劇」に結び付ける。

蓮實氏の批判はもっと理論的というか根源的なものだ。バザンの「映画の一場面が撮り方あるいは演出の方法によって被写体の真実を告げていることもありうるという思想」に賛同できないというもの。映画は「真実らしさ」にほかならず、「「真実」のまがいもの」というのが蓮實氏の考えで、この点ではバザンの全否定になる。

ドゥルーズについては、ショットとはカット割りとはおかしい、「イメージ」の定義がベルクソンを使っているが、ベルクソンを理解していないと主張し、あとはドゥルーズの本にはアブラム・ロームがない、ボリス・バルネットがほとんどない、グル・ダットがないという具合で、エドワード・ヤンも山中貞雄も鈴木清順も大島渚もないという「ないない尽くし」になる点は、期せずして岡田氏と似てくる。

そういえば、蓮實氏は6月に私とやり取りしたメールで岡田氏の本にいらだっておられた。まさに「似て非なる」という思いだったのだろう。

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