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2022年8月 2日 (火)

1人で泳ぎながら

昨日、久しぶりに平日の夕方に泳いだ。この10年ほど、日曜の昼頃にスポーツジムで筋トレをやって軽く走り、最後に軽く泳ぐ習慣を続けているが、一昨日は大学のオープンキャンパスとやらで進学相談会に駆り出された。その代わりに平日に行った。

簡単な筋トレをやったが、暑いのでランニングマシンは遠慮した。室内プールに行くと珍しく「いらっしゃい、ごゆっくりどうぞ」と言われたのでプールを見ると誰もいない。夕方ちょうど5時頃だったので、主婦などは夕ご飯の準備で帰り、会社員が来るにはまだ早い時間なのかもしれない。

考えてみたら、今までプールでたった1人で泳いだことなど一度もない気がする。とにかく抜群に気持ちがいい。室内だが1つの壁1面は大きなガラスで夕方の日差しの光が心地よい。そんななかをスイスイと1人で泳ぐのは極楽気分だった。

泳ぎながら、これまでの水泳の記憶を思い出す。妙に覚えているのは、2016年に3月から9月までパリにいた時のこと。歩いて20分ほどの場所に市営プールを見つけて週に1度通っていた。外観はアールデコ調の美しい建物だったが、中はかなり古びていて全体に大雑把。シャワーは個室でなく、更衣室も何と男女共用だった。

私はそこのシャワーを浴びるとそのままガス室に連れて行かれるような気がして落ち着かなかった。フランスの老若男女の裸をたくさん見るのも、なぜか全く楽しくなかった。それでも7月からは野外のプールも解放されて気持ちがよかった。ここは泳ぐよりもプールサイドで日光浴をする人の方が多かった。

バブルの頃はホテルニューオータニの夜の野外プールに行ったこともあった。しかし本物の金持ちがたくさんいて、何だか嫌な気分になった。何より、自分の体があまりに瘦せっぽちで貧相なのが嫌だった。

たぶんスポーツジムに通い出したのは、「胸板の厚い」体にしたかったからではないか。最初の麹町にあった職場に勤め始めた頃、向かいのビルにプールがあった。何か協定があって、そこのプールを無料で使うことができた。しかし実際に泳いでみると、私以外はずいぶんうまかった。そこで職場が契約していたチェーンのスポーツジムに行くことにした。

そこが今も行っているジムだから、40年以上も通っていることになる。かつてはワーナーマイカルの系列だったが、今はゲーム機の系列となった。最初は指導員に水泳などを教わっていたが、今はすべて1人で黙々とマシンを使い、泳ぐ。

小さい頃から泳ぐのは苦手だったことを思い出した。海に行くと父親が沖まで連れて行って、そのまま海に浮かして「一人で泳げ」と言った。そんなことが大嫌いだった。プールで飛び込むのは怖くてできなかったが、小学生の時、「男のくせに」と先生にバカにされたのはよく覚えている。今ならパワハラだろう。

そんなことを思い出しながら、1人で泳いだ夕方だった。貧相な体は昔のままである。

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