ゴダールが亡くなって:その(2)
今朝の「朝日」に蓮實重彦さんがゴダール追悼文を書いていた。これがおよそ「追悼」らしくないが、「ゴダールのような映画を撮った映画作家は、世界に一人として存在していないからだ」と書いているのは「そうだ!」と思った。その後に例外として黒沢清の初期作品が出てきたり、自分で本を書いたばかりのジョン・フォードに結び付けるのはどうかと思うが。
確かにゴダールは1970年代には既に「レジェンド」になったが、彼には育てた後継者もいないし、その影響を受けた「現代のゴダール」もいない。あんな映画は誰にも撮れないからだ。
それでも映画史には、ゴダールと同じくらい才能を持った監督はいたと思う。例えば戦前に夭逝した二人の大監督、山中貞雄とフランスのジャン・ヴィゴがそうだろう。もう少しだけ長生きしたが、ドイツのムルナウもそうだし、戦後に映画を撮らなかった『花散りぬ』の石田民三がそうだ。
長生きした監督ならば、ジャン・ルノワールの『ゲームの規則』やルキーノ・ヴィスコンティの『揺れる大地』、溝口健二の『近松物語』もそうではないか。ゴダール以降ならば、ベルナルド・ベルトルッチの『暗殺のオペラ』と『暗殺の森』、ビクトル・エリセの『ミツバチのささやき』、レオス・カラックスの『汚れた血』、ホウ・シャオシェンの『悲情城市』などを考える。
問題は長生きしたそれらの巨匠監督が、その後は割と普通の映画を撮ったことだ。つまり、いくつかの条件が重なって天才的な映画はできたが、それを維持できなかった。ゴダールの場合は維持どころではなく、数年に一度スタイルを徹底的に壊して、また新たな美学に挑み続けた。
パリに生きる若い男女の哀しい逃走劇を描いていた初期から、『中国女』(67)で突然、革命を宣言した。それにふさわしい色彩と音と登場人物の語りで表現した。それからだんだん商業映画から遠ざかり、『勝手に逃げろ/人生』(80)と『パッション』(82)で全く新しい美学で映画大陸に再上陸した。
『勝手に逃げろ/人生』は日本で公開されなかったが、昨日書いたように『パッション』は日本で83年11月に公開されて、福岡の大学生だった私はわざわざ東京に行って同時代的に見た。強い衝撃を受けたが、これは映画なのかと思った。何度も何度も見て、台詞も映像も音楽も体に染みついた。
昨日、シネセゾンの配給と書いたが、出てきたパンフレットをみたら、フランス映画社だった。考えてみたら、今日挙げた映画史の傑作のほとんどがフランス映画社の配給だった。改めて、同社代表の柴田駿さんは変人だったが偉大だったと思う。
パンフの表紙は、女性の背中の裸で真っ赤な布を手に持っているショットだ。これは後にルーヴル美術館にあるアングルの《浴女》だとわかったが、私はアングルのあらゆる絵を見るたびに、映画『パッション』の艶やかな音と映像が蘇る。
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