ようやく『百花』を見る
川村元気原作・脚本・監督の『百花』をようやく劇場で見た。東宝のプロデューサーとしてヒットメーカーであり、小説家でもある才人の川村氏の初長編監督映画だが、どうも見る気がしなかった。予告編で菅田将暉と原田美枝子の半泣きの顔を見ただけで「もう十分」という気がしていた。
彼のプロデュースした映画『バクマン!』や新海誠のアニメなど好きな作品はあるが、彼が書いた小説は苦手だった。彼の美学というか、ちょっと凝った泣かせどころが、自分には合わないと思った。
今度は監督をしたと聞いて、「ああ」と思った。その多彩な才能ぶりへの嫉妬もあったのかもしれないが、予告編を見て「見たくない」と思った。ところが新聞での映画評を見ると、まともな書き手がほめている。あろうことか、サンセバスティアン国際映画祭で監督賞まで撮った。カンヌ、ロカルノ、ベネチアに落ちたからサンセバに出たのだろうが、それにしても。
そして「朝日」の石飛徳樹記者も、おもしろいのでサンセバは忘れて見に行った方がいいと言うので、とうとう重い腰を上げて見に行った。結果は「思っていたよりよくできていたけど、やはり想定の範囲内」というところ。感じとしては、長年CMを手がけていたデイレクターが映画を監督した作品に似ていた。
冒頭から長回しで原田美枝子を追いかける。それも被写界深度を浅くして、まわりを思い切りぼかす。長回しは普通は見づらくなるが、巧みに使われていてそれを感じさせない。年末に会社員の息子・泉(菅田将暉)がやってきて、原田美枝子演じる母がボケていることに気がつく。泉は母が慌てて作ったご馳走をほとんど手を付けずに去る(ここで違和感)。
泉には妊娠中の妻(長澤まさみ)がいるが、母は彼女が誰かわからなくなる。結局、泉は母を海の見える介護施設に入れる。母は「半分の花火が見たい」というので、泉は海に浮かぶ半分の花火を見に連れてゆく。その合間に、母が若い頃に男性(永井正敏)と家を出て神戸に行った時期が挿み込まれる。あるいは泉が小さい頃の母との思い出が何度も細切れに入り込む。
画面は長回しを多用し、まわりをぼかし続ける。母が神戸にいた頃に阪神淡路大震災が起きてまわりの瓦礫がボケボケに写るが、このためだったのかと苦笑した。それにしても、息子を捨ててまで神戸に行くという母の動機というか決断が描かれていないので、思わせぶりの大学教授を演じる永瀬正敏がなぜいいのかと思ってしまう。
「半分の花火」の理由は終盤にわかるが、それも含めて全体に「文学的」だと思う。しかし第一回長編としては、アート的な洗練度と抑制の効いたメロドラマがうまくミックスされた演出で相当のものである。私の隣の席の若い女性は泣いていた。今後も十分に監督としてやっていけるだろう。私はもう見ないかもしれないが。
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