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2022年10月20日 (木)

『オーソンとランチを一緒に』の破壊的放言の力:その(3)

ではオーソン・ウェルズは自分の作品をどう考えているのだろうか。これが思いのほか、あまり語っていない。しかし悪口を言う相手に対しては辛辣だ。例えば『市民ケーン』に対して、フランスで公開当時に哲学者のジャン=ポール・サルトルから激烈な非難が出たことについてこう語る。

「私が思うに根本の部分が『市民ケーン』はコメディだからだ」「コメディでも、感動できる作品は作れるものだよ。壮大なザナドゥー城の変遷に軽いおふざけがちりばめてあって、ユーモアを欠いたサルトルはそれに感応できなかった」

「『ケーン』の公開から数年経っても、私はニューヨークの街角で、度々文句をつけられた」「『ケーン』は彼らにとって、ミケランジェロ・アントニオーニみたいなものだった。あらゆることが詰め込まれているから、「一体なんだ」となってしまったんだ。いまでは、そんなことを訊く人間はひとりもいない」

コメディはその通りだが、「あらゆるものが詰め込まれている」というのは、作った時からやり尽くした自信があったのだと思う。それは『オーソン・ウェルズのフェイク』の評判が悪かった時の反応にも出ている。

「思うに『フェイク』は、私が『市民ケーン』以降に作った真に独創的な作品だ。その他の作品は、既成の手法をほんの少し発展させたものに過ぎない。とんでもないことを言うようだが――『市民ケーン』を超える映画はないと私は信じている」。やはり亡くなる時まで自信があったのだ。

『フェイク』についてさらに「あれが幕開けとなって、誰かがこの新たな映像言語を継いでくれると期待したけど」と残念な様子も見せている。私は40年近く前にパリで『フェイク』を見てから見ていないが、「新たな映像言語」という印象は全くなかった。

彼は「芸術は生を肯定するためにある。私は否定的なものはすべて退けたいんだ。ドストエフスキーが好きになれないのもそこにある」と言いながら、「芸術に対する私の見解は作品と無関係だ」とし、「私は底なしに暗い人間であり、私の映画はブラックホール並みに暗い。『偉大なるアンバーソン家の人々』の暗さといったら。私は自分の原理原則にすべて背いている」

つまり、見る分には人生を肯定する作品が好きだが、作ってきたのはその反対ばかりという矛盾である。それを明るく言ってしまうのは天才だからか、あるいはもうすぐ70歳で亡くなる直前だったからだろうか。

このインタビューの最後のあたりは次の作品の予定だった『リア王』についてが多い。フランスのレジオン・ドヌール勲章をジャック・ラング文化大臣からもらってから「フランス人は『リア王』を実現させるパトロンになりたくて、何でもやると言ってくれている」。しかし彼はパリは撮影にお金がかかり過ぎるので、イタリアのチネチッタでやりたいと言う。「世界最安値にして最高の撮影所だ」。

そんなことを言っているうちに、映画はできずに亡くなってしまう。最後は生活が苦しい話をする。「『リア王』が契約できて高額な契約金が入れば、ようやく税金から解放される」「CMの契約が1本入るだけでわが人生は一変する」「食料品の勘定も払えないんだ」

最後の言葉は以下の通り。「ウェルズの『リア王』を実現させたい人々がこの世にいて、大金を稼げる可能性はまだあるし、『夢みる人々』の脚本を褒めてくれる人も世界に5,6人はいる。おまけに『第一の嘘』まであるんだ。3本とも契約ができれば、相応の前払い金に恵まれる。どれも契約できていないだけなんだ」

最近偶然に、60代後半の方と話す機会が2度あった。彼らにはもちろん、ウェルズのような自信も怒りも焦りも全くないようだった。やはり天才は最後までタイヘンである。

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