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2022年11月12日 (土)

古賀重樹著『時代劇が前衛だった』のおもしろさ:その(2)

古賀重樹著『時代劇が前衛だった』は(1)を書いて時間がたったが、一番驚いた伊丹万作をめぐる記述について書き留めておきたい。「第4章 モラリストと仲間たち 伊丹万作」は「戦前の日本映画界きっての知性派監督、伊丹万作(1900~1946)。挿絵画家や文筆家としても活躍した才人の短い生涯を支えたのは、故郷・松山で得た友人たちとに絆だった」で始まる。

「俳人、中村草田男もその一人だ」と続くが、私は伊丹万作が文筆家なのは知っていたが、「挿絵画家」は初めて聞いた。中村草田男との縁にもびっくり。その左頁に伊丹万作が描いた油絵《市河夫妻の図》(1924-25)が載っている。中村草田男は万作の旧制松山中学時代の友人で、彼を洋画家の岸田劉生に繋ごうとする。

「当時の万作の生活は行き詰っていた。流行挿絵画家の地位を捨て、画家修業に励んだものの実りなく、松山に帰って仲間と開業したおでん屋も失敗した」。20代半ばの万作が流行挿絵画家であり、画家を目指していたとは私は初めて知った。「草田男はこの絵を大調和展に自ら搬入。劉生の推薦もあって見事入選した」。

「「降る雪や明治は遠くなりにけり」の中村草田男はまだ本格的な句作を始めていない。後に『赤西蠣太』の監督となる伊丹万作は、同じく松山の旧友で『忠治旅日記』の監督・伊藤大輔の京都の家に転がりこんだばかりだ」。この「3人は『楽天』という名の回覧雑誌の同人であった」。回覧雑誌とは書いたものを綴じて回覧するものらしいが、万作は「大輔の書く物語に挿絵もつけた」。

著者は草田男の娘にも会っている。「母は万作に嫉妬していた」「父が最も愛した人間は、万作と母の二人だったから」「晩年の草田男が「テレビの音にビリリっと反応して、パッと振り向くことがあった」。ブラウン管には成長した岳彦、すなわち俳優の伊丹十三が映っていた。「父が反応したのは万作の声なんだと思う」」

伊藤大輔と伊丹万作の交友関係は知られているが、そこに俳人の中村草田男がこれほど関わっていたとは。そこに洋画家の重松鶴之助や美術評論家の洲之内徹が関わる。みんな松山出身だ。鶴之助は万作とおでん屋もやっている。

「万作が挿絵画家をしていたのは1918~26年の9年間である。映画監督・脚本家として働いたのが11年、病床にあって文筆家として活動したのが8年だから、ほぼそれらに匹敵する歳月だ」。これは驚いた。挿絵画家の売れっ子だった時の月収は大卒の給料が30円の時に百円。そんなことまで調べてある。

この本には万作の挿絵が何枚も載っており、その一部には映画的手法が見られる。この本は『赤西蠣太』の猫が大輔が飼っていたナナという猫に由来すると書き、2人の交流に触れてゆく。映画編集の岸富美子さんの話も引きながら。1946年の万作の死の部分で涙が出る。

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