崔洋一監督が亡くなった
崔洋一監督が73歳で亡くなった。もちろん『月はどっちに出ている』とか『血と骨』を始めとする傑作は見ているが、なぜかこの監督とは何度か縁があった。それがいつもトラブル含みだったのも、今となっては懐かしい。
最初は1996年に私が担当した「韓国映画祭」のカタログに原稿を頼んだ時だ。韓流などの遥か前のことだ。在日の監督が韓国映画をどう捉えるかを書いて欲しかった。たぶん最初はファックスで頼んで了解をもらっていたが、いつまでも原稿が来ないのでご自宅に電話をしたら、ソウルにいるとのことだった。
ソウルの彼の携帯に電話をすると「今、歩いているけど、いいよ。原稿?そんなのあったっけ。ごめん、忙しくて書けない」。「ソウル滞在のエッセーでもいいので」と頼んだが、ダメだった。
次は2003年の小津安二郎生誕百年記念国際シンポジウムの時。パネリストの1人だったが、黒沢清監督や青山真治監督らの語る「小津愛」の中で居心地が悪そうだった。これはNHKのBSが放送し、朝日新聞出版局から採録が本になったが、その時に「たった8万円でシンポだけじゃなく、NHKに出て本にまでなるなんて、安すぎる」と怒鳴られた。
それから2012年12月。学生企画の映画祭「新・女性映画祭」で『血と骨』を上映した。この映画は製作幹事会社が倒産し、当時は権利が銀行管理下にあった。学生の1人は崔監督が別の作品でトークをやる会場に出かけて直接交渉をした。彼はその場で配給の松竹のプロデューサーに電話をかけて、作品は上映できることになった。
映画祭の最終日に監督のトークがあった。彼は打ち上げにも参加して、本当に楽しそうだった。その縁でフィルムセンター(国立映画アーカイブ)の彼の全作品上映のパーティにも招待してもらい、良好な関係が続いた。
2018年に学生が企画した「朝鮮半島と私たち」で再び『血と骨』を上映した時は、出資した民放が窓口になっていた。なぜかそことは揉めたが、さらにトラブルが起こった。映画祭の予告編を民放が監督に見せたところ激怒したという。監督から私の携帯に電話がかかってきて、思い切り怒鳴られた。
彼から怒鳴られた話はほかの人からも聞いた。情熱の人だったのだろう。だからあんな映画が作れたし、人間関係でいろいろあったのだろう。
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