映画『あちらにいる鬼』を見て
廣木隆一監督の『あちらにいる鬼』を劇場で見た。この映画を見るのは躊躇した。まず、同名の井上荒野の原作がある。これがとてつもない傑作で私は読んで体が震えた。さらに私は元気な頃の井上光晴も見ているし、原一男監督が晩年の彼を撮ったドキュメンタリー『全身小説家』の印象もある。若い頃には彼の『地の群れ』などの小説も読んだ。
だからハンサムで長身の豊川悦司が白木篤郎(=井上光晴)を演じると聞くと、「違うだろう」と思った。もっと背が低くて眉毛の濃い、九州顔の俳優がやらないと。普通ならモテない顔なのに、文学の力とそれがもたらす嘘つきと優しさでいつの間に女性を引き付ける。今の俳優で誰がいいかすぐには言えないが、リリー・フランキーか少し前の柄本明か。
さて映画はどうだったかと言えば、かなりおもしろかった。豊川悦司は黒縁メガネをいつも外さず、どこか井上光晴を思わせる表情を見せる。ただし上品過ぎて、「噓つきみっちゃん」と呼ばれた井上光晴の詐欺師的な感じが今一つ足りない。
しかし長内みはる(=瀬戸内寂聴)を演じる寺島しのぶは、ほぼ申し分ない。歌舞伎や映画界の家系に生まれながらこれまで濡れ場を何度も演じており、寂聴のような「過去のある女」の感じが出ている。彼女が出家して剃髪するシーンやその前に白木に髪を洗ってもらうシーンなど、まっすぐ心を打たれる。
意外によかったのが白木の妻、笙子を演じた広末涼子。小説版『あちらにいる鬼』の笙子は聡明なのか大らかなのか余裕のある感じだが、広末は少し要領が悪いが懸命に生きる感じがあって、それはいい方に転じていると思った。最初に白木が2度も堕胎させた若い女が自殺して入院しているところに彼女が見舞いに行くシーンで、その顔のアップに十分なリアリティが感じられた。
彼女が終盤に浮気をするシーンは映画ではいらなかったと思うが、それを除くと荒井晴彦の脚本はお見事。あさま山荘事件などの映像を入れるのも彼らしい。そして3人を中心に人物のちょっとした表情の変化やしぐさをじっくりと見せる廣木隆一の演出も心地よい。白木の死の床で笙子と寂聴が揃って白木の手を握るシーンやその後帰ってゆく寂聴の表情だけで涙が出そうになった。
原作を読んでいなければ、どう思っただろうか。最初の週末にしてはあまり客の入りはよくないが、一人で来た中年の女性が目立つ。寂聴ファンなのだろうか。
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