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2022年11月15日 (火)

ジャン・ルーシュのこと

先日、岡本太郎と会ったことを書いていたら、急にジャン・ルーシュのことを思い出した。ルーシュはフランスの映像人類学という分野を築き、「シネマ・ヴェリテ」の代表作である『ある夏の記録』(1961)を監督している。来日したルーシュのために企画した彼の作品上映の初日のパーティに、岡本太郎はやってきた。

ジャン・ルーシュが国際交流基金の招待で来日したのは、1988年10月末だった。私はそこの総務課に勤務して1年半がたっていた。その頃は新聞などへの対応を担当する広報が主な仕事だったが、映画監督であり、当時シネマテーク・フランセーズの理事長であるルーシュに取材をしてもらおうと考えた。

たまたまその年の夏に休みを取ってパリに行った私は、友人の紹介でシネマテーク・フランセーズの普及部長だったアラン・マルシャンさん(故人)と知り合いになり、理事長のルーシュが日本に行くので世話をして欲しいとも言われていた。

9月になると日本映像記録センターの牛山純一氏に会いに行った。たぶんこれもアランさんから多くの作品を収蔵しているからと言われたのかもしれない。できたら来日に合わせてルーシュ映画祭のようなものができないかと提案したら「やりましょう!」と言われた。当時は牛山氏が日本のテレビドキュメンタリー史に残る人だとは全く知らなかった。

牛山氏が持っている作品を、彼が定期上映会をやっていた日本映像カルチャーセンター(今の角川シネマ有楽町)でやるわけだから、別に私は何もしていない。それでも自分が提案して映画祭が実現したことに興奮した。慌ててプレスリリースを作り、映画祭の告知や来日時のインタビューを依頼した。

「ぴあ」にも映画祭について大きく載せてもらい、日経新聞はインタビューに来て記事になった。この時に古賀重樹さんと初めて会った。私が電話で「フランス語か英語はできますよね」と聞くと「どちらもできませんので、通訳を用意してください」。そんな予算はないので「私が仏語を何とかできるので訳します」と言った。

覚えているのはホテルニューオータニのカフェで、私は「せめて珈琲代くらいは払ってくださいね」と言って、古賀重樹氏に払わせたこと。とても広報担当とは思えない。それから武田潔さんが長いインタビューをして、これは伝説の映画雑誌『リュミエール』の最終号に掲載された。

故・寺尾次郎さんと初めて会ったのもその時だった。当時はヘラルド映画を辞めてベストロン映画の立ち上げに参加した頃で、まだ字幕翻訳はしていなかった。フィルムセンターやイメージフォーラムの方々とも初めて会ったし、ルーシュのための日本のドキュメンタリー映画の上映会をやって『柳川掘割物語』を撮った故・高畑勲さんにも来てもらった。ルーシュと高畑さんが盛り上がっていたのを思い出す。

たぶんこれが私の企画屋、とくに映画祭屋の最初の仕事だろうと、今になって思い出す。

 

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