吉田喜重さんが亡くなった
吉田喜重監督が亡くなられた。私が親しい日本の映画監督は多くないが、吉田喜重さんはある時期よく会っていた。実は最近亡くなられた崔洋一さんと同じく、「何度か怒られた」監督だった。もちろんあの静かで痩せてお洒落な吉田さんは、エネルギッシュで感情を顔に出しおしゃべりな崔さんとは全く違うタイプだ。
だから「怒られた」と言っても「怒鳴られた」わけではない。静かに、しかし強い表情で「ダメです」という感じ。吉田喜重さんと最初に会ったのはたぶん1993年頃だろうか。新聞社に転職して「映画生誕百年実行委員会」立ち上げた時、委員長の蓮實重彦さんから吉田さんを入れましょうと言われた。
すべてはリュミエール兄弟が日本に送ったカメラマンの1人、ガブリエル・ヴェールの曾孫で私と同世代のフィリップ・ジャキエ氏が1989年に来日して蓮實さんに会ったことから始まった。蓮實さんは吉田監督を紹介し、それによって監督はガブリエル・ヴェールを映画にしようと動き始めた。私も連絡をもらい、それはヴェールを含めた日本の映画誕生を見せる展覧会「映画伝来」につながった。
1995年12月に「映画伝来」のオープニングのためにジャキエ氏がパートナーと来日して、その歓迎の夕食会を吉田さんと岡田茉莉子さんの夫妻とやろうとした時。場所探しを頼まれた私は神楽坂の「鳥茶屋」に決めた。そして吉田さんに「日本情緒もあって量もたっぷりです」と書いたファックスを送った。
吉田さんはかつて電話よりファックスを好んだ。するとすぐに「そんなところに岡田は連れていけません。すぐにキャンセルしてください」と返事があり、結局彼の行きつけの原宿のイタリア料理店になった。もう一つ怒られたのは、朝日ホールでリュミエールの映画を上映し、シンポジウムをする「リュミエールの夕べ」の準備の時。当日配布の小冊子の彼の略歴に「大島渚らと共に松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手として登場した」と書いた。
ゲラを見た吉田さんは数分後にその部分に太い斜線を引いてファックスで送り返して、すぐに電話があった。「松竹ヌーヴェルヴァーグなんて、松竹の宣伝部が作った言葉です。私は大島さんと一緒に活動したことはないし、大島さんの映画は今だに最初の1本しか見ていない」と言われた。この時が一番怖かった。その時の厳しい口調に、これは不用意なことを書いたと深く反省した。今日はここまで。
12/11付記:記憶違いがあったので一部訂正。
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