パゾリーニ映画祭のこと:続き
パゾリーニの映画のうち数本を「保税」扱いにしたまま上映することは、東京税関はできないという返事だった。東京国際映画祭は国のイベントだから例外だと。まさかパゾリーニ財団から借りたプリントにボカシを入れることはできない。
するとユーロスペースの堀越謙三さんから、パゾリーニの主要長編を14本買う予定だが、一緒にできないかという連絡があった。私は「それでは、こちらはパゾリーニ財団からそれ以外の短編やドキュメンタリーを借りて一緒にやりましょう」と答えて、それをパゾリーニ財団に伝えたが返事がない。
一方で映画祭を単なる新聞社のイベントではなくもっと大きなものにするために、田中千世子さんは大島渚監督を実行委員長にして実行委員会を作ろうと提案した。一緒に大島監督に会いに行ったのは、テレビ局のパーティが開かれていた東京プリンスホテルの宴会場だった。車椅子の大島さんは上機嫌で快諾した。
その時に聞いた言葉に「映画を撮るたびにスキャンダルを起こすというのはすごい才能なんだよ、パゾリーニや僕のように」があった。私はメモをして「パゾリーニや僕のように」を省いて了解を得てチラシやポスターに入れた。そこにはアルベルト・モラヴィアとジル・ドゥルーズがパゾリーニについて語った言葉も私が探して訳して並べた。
パゾリーニ財団からは写真やデータも送られてきたので、カタログの準備も始めていた。あらすじや作品解説は開催費用の一部を負担して全作品を上映する川崎市市民ミュージアムの映画担当学芸員だった川村健一郎さんを始めとして、学芸スタッフ数名に書いてもらった。そのほか四方田犬彦や和田忠彦さんなどに原稿を発注した。
ラウラ・ベッティさんからファックスがないので電話をすると、「配給会社のプリントは検閲だらけのものをフランスの会社が各地に売っているが、あれは「腐ったプリント」で財団のプリントと一緒に上映するなんてもってのほか」と言われた。私は既にいろいろな方に協力を依頼済みなので、せめてあなたの考えをファックスで送ってくれと頼んだ。
そこで送られてきたのが、四方田犬彦さんが『パゾリーニ』の後書きに書いた「パゾリーニは2度殺されてしまった」という言葉だった。いずれにしても1998年末には、パゾリーニ財団とは決裂してしまった。私は何とかスチール写真は使わせてくれと電話で交渉して了解を取った。
結局、ユーロスペースが買ったプリントの上映だけになったが、堀越謙三さんに私は無料で編集するからカタログの印刷費や原稿料は払ってくれと頼んだ。そして川崎市市民ミュージアムでの上映はなくなり、公開の直前に有楽町朝日ホール(『御法度』でカンヌに行く前の大島監督も来た!)と早稲田大学でシンポジウムをやることにした。
つまりパゾリーニ財団は、チラシ、ポスター、カタログの写真以外は全く関係がなかったことになる。私が映画祭をやろうとして失敗したのは後にも先にもこの時だけである。
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