芥川龍之介の旅行記を読みながら:もう1度だけ
『芥川竜之介紀行文集』について2度も書いたのに、この本の大半を占める中国での旅行記に触れていないので書いておきたい。芥川龍之介のように明治中頃に生まれたインテリは、中国の漢籍についての知識がすさまじい。だからどこに行っても中国の詩や歴史書が思い出される。
そして実際の中国を見て落胆する。「現代の支那なるものは詩文にあるような支那じゃない。猥雑な、残酷な、食意地の張った、小説にあるような支那である」「「文章規範」や「唐詩選」の外に、支那あるを知らない漢学趣味は、日本でも好い加減に消滅するが好い」となる。
例えば中国の乞食を見て驚く。「雨の降る往来に寝ころんでいたり、新聞紙の反古しか着ていなかったり、柘榴のように肉の腐った膝頭をベロベロ舐めていたり、――要するに少々恐縮する程、ロマンチックに出来上がっている」
この感じは私が1984年に最初にパリに行った時の印象に近い。なんでこんなに乞食がいるのだろうかと思った。そのうえ、住んでいる人は全く気にせず、話したり、小銭を渡したりしているのがすごいと思った。日本のまともさというか、格差の少なさを当時は考えた。
一方で架空の対談の形で上海の西洋趣味を批判する。「西洋人の家は大抵駄目だね。少くとも僕の見た家は、悉下等なものばかりだった」「僕は西洋が嫌いなのじゃない。俗悪なものが嫌いなんだ」「唯ここの西洋は本場を見ない僕の眼にも、やはり場違いのような気がするのだ」
これはその(2)の長崎の南蛮物をからかう考えと同じだ。芥川龍之介の師、夏目漱石はロンドンに1年ほど過ごしたが、彼は日本にいてこういうことを考えていた。なぜ芥川が1921年に中国に半年ほど行ったかと言えば、彼は何と1918年から大阪毎日新聞の社員でそこから派遣されたからである。
漱石が1907年から東大を辞めて東京朝日新聞の社員となり、連載小説を書いたことはよく知られている。その方が収入も多く著作に専念できたから。芥川も同じ道を歩んだとは知らなかった。小説家という職業は昔からあったが、20世紀になって「会社員」という新しい形が栄え、小説家まで会社員になった時期があった。もちろん出社の義務はなく、小説を書くだけでいい。
この旅行記の一番最後に「雑信一束」という短文を20個集めたものがある。その「19奉天」は「丁度日の暮れの停車場に日本人が四、五十人歩いているのを見た時、僕はもう少しで黄禍論に賛成してしまうところだった」
黄禍論は20世紀初頭に欧米で出てきたアジア嫌悪、アジアへの恐怖だ。外国で日本人の集団を見ると、確かに醜い。帰りの飛行機の免税店で大老にお土産を買うの日本人の集団を見ると、自分もその1人のくせに日本人が嫌になる。100年前の芥川の気分がわかるとは。
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