山根貞男さんが亡くなった
昨日の朝、「朝日」の社会面で山根貞男さんの訃報を見て驚いた。彼のようによく知っている方だと、普通は前日の夜にはどこからか伝わってくるが、新聞で見るとは。後から調べたら「朝日」だけに載っており、意識的に情報を広げなかったのだろう。
確かに「朝日」には定期的に書いていて、私は「日経」の宇田川幸洋さんや中条省平さんの評と共に、大きな信頼を寄せていた。それからたまに読む『キネマ旬報』の「日本映画時評」も参考になった。彼の場合は昔の「評論家」タイプで、好きな監督は徹底的に持ち上げ、嫌いな映画はけなす。
これが今の「映画ライター」だと好きでも嫌いでもほめる、というより「紹介」する。今ではそうしないと食っていけないからだろうが、山根さんの世代は映画ジャーナリズムにまだ余裕があったので、自由に書けたのだろう。
彼と最初に会ったのは、1992年に蓮實重彦さんの監修で「レンフィルム祭」をやった時ではなかったか。「いやあ、どれもおもしろいですわ」と少し大阪弁の感じられる明るい声で笑っていた。丸い眼鏡にちょび髭で短髪で、私は最初に見た時には「東条英機のようだ」と思った記憶がある。
それから1995年の映画生誕百年で、これも最近亡くなられた吉田喜重監督、蓮實さんと共に実行委員になってもらった。蓮實さんはこのお二人が大好きで、2003年の小津安二郎生誕百年の国際シンポでも一緒だった。2006年の溝口健二没後50周年国際シンポは(私の希望で)吉田さんはなしで山根さんと蓮實さんだった。
だからよく会っていたが、考えてみたら私は彼に直接原稿を頼んだこともなければじっくりと話したこともなかった。蓮實さんには「朝日」や映画祭のカタログに何度も書いてもらったが、山根さんは直接は記憶にない。長時間話したのはたぶん1回だけで、1994年の12月に映画生誕百年の前夜祭「サイレント・ルネサンス」の初日の夜ではなかったか。
坂本龍一の音楽による小津安二郎『その夜の妻』に興奮した蓮實さんや山根さんたちと、夜の12時過ぎまで今はなき銀座東急ホテルのカフェ(24時間営業!)で話していた。珍しく山根さんの奥さまも一緒だった。山根さんは「この人が学校の先生だから、私は好きな映画のことだけ書けるのです」と笑っていた。
大学に移っても、試写会で月に1度は会った。最後に会ったのはいつか覚えていないが、あの笑顔はいつも変わらなかった。2021年に大著『日本映画作品大事典』を出した時にユーロスペースでのイベントに行ったが、あれが最後だったのかもしれない。実は先週出した『永遠の映画大国 イタリア名画の120年史』を送ったが、表紙くらい見てもらえただろうか。
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コメント
昨年7月31日、新宿紀伊國屋書店にて、上野昂志さんの「黄昏映画館 わが日本映画誌」刊行記念トークショーがあり、聞き手が山根先生でした。山根先生は、「自分がまだ編集者だったら、上野昂志の本を作る」と言っていたそうです。この本の刊行をいちばん喜んでいるのは山根先生かもしれないと、対談中の嬉しそうな表情を見て思いました。「日本映画作品大事典」「映画を追え フィルムコレクター歴訪の旅」の上梓という唯一無二のお仕事を終えたばかりで逝かれましたが、もっともっと書いて、語って欲しかったです。
投稿: 高木希世江 | 2023年2月28日 (火) 18時08分