河原畑さんが亡くなった
河原畑寧(かわらばた・やすし)さんが88歳で亡くなった。と言っても彼の名前を知っている人は、多くないかもしれない。長年、「読売」で映画担当の記者だった。私は大学生の時から、日刊紙では「読売」の(寧)という一文字の文章が一番信用できると思っていた。
2年生の時か、アンドレイ・タルコフスキーの『ストーカー』が公開された時、パンフレットに河原畑寧さんの名前を見つけた。この作品がカンヌ国際映画祭で上映された時のことを書いていた。
本人にお会いしたのは、1985年のカンヌ。前年の秋から1年間パリに留学していた私は、産経新聞のパリ支局長に頼んでプレスカードを取って出かけた。その時カンヌにいた日本人で面識があったのは亡くなった吉武美知子さんだけだったが、彼女について行った日本人7、8人の昼食に河原畑さんがいた。
その場には映画評論家や日本の配給会社の人もいたと思うが、よく覚えていない。とにかく中心にいたのが河原畑さんで、みんなから見た映画の感想を聞かれていた。河原畑さんは大きなステーキをたいらげながら、明るく話していた。時おり外国人が挨拶に来ることもあった。
そんな彼を見て私は「あのようになりたいなあ」と素直に思った。とにかく、カンヌのような国際映画祭で「顔」のような存在になっている河原畑さんはカッコいいと思った。とりあえずそんな場所に仕事で行けるようになりたい。
その後彼を見たのは、1992年に初めてベルリン国際映画祭に行った時だと思う。そこでも河原畑さんは日本の配給会社の人々に囲まれていた。その年の6月に私は初めての映画祭「レンフィルム祭」を企画した。そこにぜひ欲しい作品があって私は2月にベルリンに行った。その試写を5月にやった時、河原畑さんは見に来てくれた。
彼は試写状を持っていなかったので、係の女性が「お名前をお書きください」と言った。すると苛立つように「読売の河原畑です」と言った。近くにいた私は非礼を詫びたが、その頃から話すようになった。いつも気さくで、何をしているのかわからない私のような人間にも優しかった。それからいつもあちこちでご挨拶をした。
私が大学に移った時、河原畑さんは同じ大学で映画批評の授業をしていた。その時に上映作品のリストを見て、ジョン・フォード、アンソニー・マン、プレストン・スタージェス、山中貞雄などがあって「さすが」と思った。2年後に当時の非常勤の定年の75歳で辞められた時は、教え子たちが10人ほど集まって送別会をしたので私も参加した。
とにかく試写会でよく会った。10年ほど前からしばらく見ないと思ったら、東和の試写室で会った。「体調が悪くてね」と言われた。その時私の隣に座った河原畑さんは途中でトイレに立った。終わった後私に「もう試写会は来ない。映画の途中でトイレなんて恥ずかしくて」と言った。その後、2017年に日本映画ペンクラブ賞を受けられた時に会ったのが最後だった。
そういえば、彼の訃報は「朝日」には載っていなかった。
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