横浜の「小津安二郎展」
今年は小津安二郎の生誕120年という。私が蓮實重彦、吉田喜重、山根貞男の各氏に頼まれて小津安二郎生誕百年記念国際シンポジウムをやったのは、もはや20年前になる。たぶんあの頃が自分にとって一番仕事が乗っていた頃だと、今になって思う。
最近、吉田喜重さんと山根貞男さんが立て続けに亡くなられた。そんなことを考えながら神奈川近代文学館で始まった「生誕120年 没後60年 小津安二郎展」を見に行った。会場の神奈川近代文学館は実は行ったことがなかった。みなとみらい線の元町・中華街駅から徒歩10分という。
ところが出口を間違えたこともあって、迷ってしまった。チラシの地図を見ればよかったのに、スマホのグーグルマップで位置情報を見ながら歩いたら、「港の見える丘公園」に迷い込んで急な階段を登ることに。スマホをやめて公園の中の矢印を追って何とかたどり着いた時は、息も切れ切れだった。
会場は古い建物で、展示物は手紙や原稿、遺品、シナリオ、ポスター、雑誌などが大半で、旧来型の文学展に近い。全体に昭和半ばまでの感じだったが、それが妙に心地よい。自筆の手紙などを全部読みたくなる。
何と9歳の時の作文からある。「私の内(家?)は深川区亀住町七番地にあります。父母と兄と二人の妹があります。其ほか女中が二人います」と始まるが、女中が2人いたことがわかる。その頃、父の故郷の三重県松坂に引っ越す。12歳の時に書いた作文や九州の地図の絵。
県立中学を出た19歳の頃、母が父に書いた手紙がある。毛筆体で読めないが、解説によれば神戸高商を受験したことが書かれている。彼はそこに落ち、その後受けた名古屋高商にも落ち、さらに一年浪人をして受けた三重県師範学校にも通らない。そして小学校の代用教員となる。
代用教員の頃の卒業写真は、本当に情けなさそうな顔をしている。これが松竹キネマ蒲田撮影所に入社すると、撮影助手や助監督や脚本参加で大活躍をして23歳で監督昇進。年に7、8本も作って看板監督になる。3つも大学に落ちて浪人までした青年が、実は映画にこれほど向いていたとは、奇跡のめぐりあわせだろう。
35本もあるサイレント作品では、現存しない作品のスチールに目が行く。小津で最も長い153分の『美人哀愁』(1931年)の写真は、小津が若いハーフの井上雪子に何か話しかけている感じで、小津の隣には岡田時彦。
トーキーになってからは、5歳年下の山中貞雄と共に戦争に召集されたあたりに目が留まる。小津の日記で山中に触れた部分を読む。山中の遺書を「中央公論」で読んで、「詮ない事だが、あきらめ切れぬ程に惜しい男を亡くした」。南京で俳優の佐野周二と並ぶ写真もある。既に大監督の小津もスターの佐野も戦争に行かされたとは、改めて驚く。
今日はここまで。今日書いたのは、主に図録による。1000円の薄いものだが、充実している。展覧会は5月28日まで。
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コメント
小津安二郎展は巡回展示なのですが、今の道立文学館の展示は8月20日まで。北海道なので、展示の終わりには北海道の小津安二郎研究として、田中真澄さんが取り上げられています。参考までに。
投稿: 鼬 | 2023年7月27日 (木) 16時06分