『TAR/ター』の異様な盛り上がり
5月12日公開のトッド・フィールド監督『TAR/ター』を試写で見た。これまで見たことのないような実にヘンな映画だが、主演のターを演じるケイト・ブランシェットを見ているだけで異様に盛り上がった。出だしからして面食らう。
真っ黒な画面に何語かわからない囁きに続いてアマゾン風の音楽と森林の音が流れ、そこにスタッフのクレジットが延々と流れる。つまりエンド・クレジットが先に来る。ようやく始まると、舞台でリディア・ターは公開インタビューを受けている。質問するのはベテランのジャーナリストのようだ。
そこで彼女がアメリカの5大オーケストラで指揮者を務めたことやアカデミー賞などを受賞したこと、女性指揮者を応援する財団を設立したこと、今はベルリン・フィルの首席指揮者であることなどの経歴が語られる。このインタビューでは同時に彼女の音楽に対する考えも披露されるが、その受け答えはほぼ完璧に見えた。
彼女の周りには2人の女性がいた。ベルリン・フィルのコンサート・マスターでヴァイオリニストの女性、シャロン(ニーナ・ホス)は彼女と住む恋人で、公私にわたって支える。フランチェスカ(ノエミ・メルラン)は指揮者を目指してリディアの秘書をしていた。この2人はリディアに近づく若い女性に厳しい目を向ける。
当面の目標はマーラーの交響曲で唯一録音していない5番(ヴィスコンティの『ベニスに死す』で有名)をライブ録音すること。この練習の場面は凄まじい迫力。実際にケイト・ブランシェットが指揮をしてプロのオーケストラが演奏する音を映画に使っているらしく、彼女の渾身の指揮が鬼気迫っている。私は試写室で見たが、これは音響のいいシネコンで見たらもっとすごいのではないか。
しかしこのあたりから、少しずつ歯車が狂い始める。財団で指導した若い女性がニューヨークで自殺したというニュースが入る。年配の副指揮者を解雇して楽団に亀裂が入る。さらにその後任に自分がなると思っていたフランチェスカは、自分が選ばれなかったことを知って去ってゆく。さらに新しく起用した若いロシア人女性チェロ奏者を巡って、楽団員たちは揺れる。
その後に2つのびっくりするシーンが待っている。個人的には後半のサイコスリラーめいた展開やその終盤の驚きよりも、指揮をしているケイト・ブランシェットの場面に一番心を動かされた。そこで彼女はドイツ語と英語を半々で話す。ドイツ語も指揮も映画のために学んだようだが、そこに込められた驚異的な強度は本物の天才指揮者みたい。
私はベルリン・フィルの巨大なコンサート・ホールに行ったことがあるが、映画はきっとあそこで撮影されたと思いながら見た。プレス資料によれば同じタイプのホールを持つドレスデン・フィルの本拠地を使い、そこの楽団員も登場しているようだ。楽団にとって重要なことは指揮者ではなく、楽団員たちの議論で決めるあたりもおもしろかった。
アカデミー賞は6部門にノミネートされながら無冠に終わったが、『エブエブ』の何倍もいい。シャロン役のドイツの名優、ニーナ・ホースは実に落ち着いていて、激しく動き回るケイト・ブランシェットとの組立合わせがうまい。
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